5世紀のドイツ フン族の撃退とフランク王国建国

前回の復習 6世紀のドイツ

 6世紀のドイツはフランク王国の時代である。この時代はメロヴィング朝の時代である。建国者グローヴィスとその子であるクロータル1世がフランク王国を拡大していく過程を見ていきました。

 さて、今回は、フランク王国の建国の過程を見ていきます。

フランク王国の建国

グローヴィスの改宗

 5世紀、ヨーロッパのキリスト教勢力は2つのはばつにわかれていた。アリウス派とアタナシウス派である。4世紀初頭のニケーア公会議でローマ帝国はアタナシウス派を正統とした。一方で、異端とされたアリウス派の人々はローマ帝国を離れゲルマン諸国で布教を行った。

 ゲルマン民族は、もともと森の精霊などの多神教を信仰していた。

 多くのゲルマン民族がアリウス派へ改宗する中、フランク族は多神教を信仰していた。

 96年、クローヴィスとその臣下3000人が洗礼を受けて、アタナシウス派に改宗した。その場所はランスという町である。このちは、15世紀の百年戦争期にフランス国王シャルル7世が戴冠式を行った場所としても有名である。

西ゴート王国との戦い

 では、なぜクローヴィスはキリスト教に改宗したのであろうか。それは、ローマ教会を味方につけたかったからである。当時フランク王国は南フランス(アキテーヌ)をめぐって西ゴート王国と戦っていた。

 西ゴート王国は、ゲルマン民族の一民族で5世紀末にはスペイン(イベリア半島)に拠点を置いていた。

フランク王国の建国

 フランク王国は、さまざまな豪族で構成されていた。81年、メロヴィング朝のクローヴィスが統一し、フランク王国を建国。クローヴィスは国王になった。

フランク族とは

 フランク族は、ゲルマン民族の一つである。もともとはライン川の東岸で生活し、ローマ帝国時代は対岸のローマ帝国とにらみ合っていた。5世紀にライン川を渡り、ローマ帝国へ侵入した。

フン族の撃退

カタラウヌムの戦い

 51年、フン族のアッティラ大王がライン川を渡り、ガリア(旧ローマ帝国領)へ侵入した。ゲルマン民族とラテン人(旧ローマ市民)は、連合軍を作りこれを撃退した。

西ローマ、西ゴート、フランク連合軍

 この連合軍に参加したのは、3つの舞台である。フランク族(まだ王国ではない)、西ゴート王国、そして西ローマ帝国である。

 西ゴート王国は、5世紀初頭にイタリアへ侵入。ローマを占領した。その後、アフリカ方面へ進軍するもヴァンダル人に撃退された。一方で、ヴァンダル人からスペインを奪い、スペインを拠点とした。

 西ローマ帝国は、4世紀末のローマ帝国の分裂で誕生した。5世紀初頭にローマをうばわれ、ラヴェンナへ遷都した。また多くの領土をゲルマン人に奪われた。

 ローマ帝国の軍隊はゲルマン人傭兵で構成され、当時の傭兵隊長がオドアケルである。

フン族とアッティラ大王

 フン族とは、アジア系騎馬民族の一派である。紀元前1世紀に漢王朝に撃退された匈奴(きょうど)の残党という説もある。

 4世紀には南ロシア(黒海北部)へ侵入。これをきっかけにゲルマン民族の大移動が始まる。5世紀にはドナウ川の北のハンガリー(パンノニア平原)に一大帝国を築いた。

 この国の王がアッティラ大王であった。5世紀半ばには、バルカン半島(東ローマ帝国)やガリア(西ローマ帝国)へ侵攻した。フランスのブルグンド王国もこの時フン族の支配下に入った。

 53年にアッティラ大王が亡くなると、フン族は急速に衰えた。

ブルグンド王国

 06年に、ライン川を渡る。37年に、フン族の支配下へ。アッティラ大王の死でブルグント王国は復活。しかし、6世紀前半にフランク王国の支配下になる。この地方は、その後ブルゴーニュ地方と呼ばれる。

西ローマ帝国の滅亡

 当時の西ヨーロッパの中心はイタリアである。しかし、5世紀以降イタリアは戦乱の真っただ中に入る。

  • 4世紀末、ローマ帝国は東西に分裂した。
  • 10年、西ゴート王国が侵入。ローマを占領した。ローマ皇帝は、イタリア東部のラヴェンナへ避難した。
  • その後、フン族の侵入でヨーロッパ各国は連合する。
  • 76年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが下克上で西ローマ帝国を滅ぼす。
  • 93年、混乱したラヴェンナへ東ゴート族が侵入。東ゴート王国を建国した。