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ドラマ時代劇

鎌倉幕府が始まる頃、世界では

 こんにちは、sekaishiotakuです。昨日、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の初回放送がありました。Youtubeなどでは鎌倉時代関連の動画が次々上がっています。

 こちらでは、鎌倉幕府が成立した12世紀末の世界の様子をまとめてみました。

1150年代

日本 保元の乱と平治の乱

 武家が政権の中枢に行くきっかけになったのは、2つの戦いである。保元の乱と平治の乱である。

 保元の乱とは、鳥羽上皇と崇徳上皇の主導権争いである。摂関家(藤原氏)も、源氏平家などの武家も家を二分して戦った。

 そのきっかけは、55年の近衛天皇の崩御である。次の天皇で、鳥羽上皇と崇徳上皇が対立。鳥羽上皇が推す後白河天皇が誕生した。今回の大河で西田敏行さんが演じる狸おやじである。

 翌56年、鳥羽上皇が崩御。崇徳上皇派はクーデターを決行。これが保元の乱である。

 この時、後白河天皇派(旧鳥羽上皇派)についたのが、平清盛と源義朝(頼朝の父)である。

 クーデターに失敗。崇徳上皇は、讃岐(香川県)へ島流し。この地で憤死した。崇徳上皇は三大音量の1つに挙げられている。

 後白河天皇は、上皇がいなくなったことで剛腕をふるった。ここで厚遇したのが平清盛である。源義朝はこれを苦々しく思った。

 源義朝は、平清盛が京都を離れたときに、クーデターを決行。これが平治の乱である。源頼朝はこの時に初陣を果たした。

 クーデターは失敗。源義朝は斬首。息子の頼朝は伊豆(静岡)に流された。

中国 金王朝と南宋

 12世紀半ば、中国は南北に分かれていた。北部は、女真族が金王朝を成立させていた。一方、南部は漢民族の宋王朝が続いていた。

西アジア 十字軍とサラディン

 12世紀から13世紀は、十字軍の時代である。12世紀後半に活躍したイスラムの英雄がサラディンである。

ヨーロッパ イギリスでアンジュー帝国が成立

 12世紀のヨーロッパは十字軍の時代である。50年代は第2回十字軍の直後である。

 54年、イングランドでプランタジネット朝が成立。フランスの西半分も統治したアンジュー帝国の成立である。

1160年代

日本 平清盛が太政大臣に

 平治の乱の後、有力貴族が次々失脚。67年、平清盛は太政大臣になる。しかし、別の事業に集中するため、すぐに辞任した。

 この事業とは、神戸の都市計画である。平清盛は日宋貿易に力を入れていた。そこで、神戸に強大な港と都(福原京)を建設していた。当時の平家は日宋貿易で巨万の富を得ていた。また、日宋貿易で大量の銅銭が日本に流入。鎌倉時代の貨幣経済につながる。

 68年、平清盛は病に倒れる。その後、出家した。

中国 日宋貿易と経済大国

 宋王朝は、国土の大部分を失ったが、裕福な江南地域を維持した。ベトナムからコメの新種が流入。コメの生産力が増大した。景徳鎮などの陶磁器などの生産も拡大。

 一方で、61年金王朝が南宋へ侵攻。しかし、金王朝で内乱が発生。皇帝が亡くなると和議を結んだ。この和平が、宋王朝の経済発展を促進した。

西アジア サラディンが宰相に

 サラディン、ファーティマ朝(エジプト)の宰相になる。

ヨーロッパ ノートルダム大聖堂

 フランス(カペー朝)は、パリにノートルダム大聖堂の建造を始める。

1170年代

日本 平家全盛期

 70年代は、平家全盛の時代である。徳子が中宮になり、安徳天皇を生む。平家は天皇家と外戚関係になった。

 しかし、一部の貴族はこれを快く思わなかった。77年、平家打倒を目指す鹿ケ谷の陰謀が行われるが、失敗に終わる。79年には、後白河法皇は幽閉。院政は停止された。80年に安徳天皇が即位。天皇になれなかった以仁王は、平家打倒の令旨が全国の源氏に送った。源平合戦の始まりである。

この頃、法然が浄土宗を開く。

中国

西アジア アイユーブ朝の成立

 サラディンがエジプトでアイユーブ朝を開く。

 ゴール朝が北インドへ侵入。

ヨーロッパ

 北イタリアのロンバルディア同盟が、神聖ローマ皇帝(ドイツ)のフリードリヒ1世を撃退。

1180年代

日本 鎌倉幕府成立

 80年、平家打倒の令旨で源平合戦が始まる。最初は、京都攻防戦である。京都の源頼政が挙兵。宇治平等院の戦いで敗れる。

 同じ頃、源頼朝は、伊豆で挙兵。冷遇されていた坂東武者(関東の武士)たちがこれを支援した。北条氏などがその一例でである。伊豆の石橋山の戦いで敗れると関東各地に落ち延びた。彼ら再集結したのが鎌倉である。平家は源頼朝追討軍を鎌倉に向かわせた。ここで起きたのが富士川の戦い(静岡)である。

 富士川の戦いの後、源頼朝は京都へ向わず、坂東武者たちと関東独立に向かう準備を始めた。これを支援したのが大江広元などの京都から来たブレインたちである。これが鎌倉幕府の成立につながる。同じ頃、平清盛が病死した。

 83年、木曽(岐阜)の源義仲が京都を制圧。平家は、福原京(神戸)へ逃れた。しかし、次の天皇をめぐり、後白河上皇と源義仲が対立。後白河上皇は頼朝を頼った。頼朝は東国(関東)支配の公認と引き換えに、源義経を京都へ派兵。源義仲を破った。

 源義経は、平家のいる神戸(福原京)に侵攻。85年の壇ノ浦の戦い(山口県)で平家を滅亡させた。

 後白河上皇は、源義経を引き抜き、源頼朝を破ろうとした。しかし、この陰謀が発覚。頼朝は、義経追討と守護地頭の設置を容認させた。現在、鎌倉幕府の設立は85年の守護地頭の設置とするのが一般的である。(いいはこ(1185)作ろう鎌倉幕府)。

中国 名君 孝宗の退位

 89年、金王朝を撃退した孝宗が退位。外戚たちが実権を握るようになる。

西アジア サラディンと第3回十字軍

 87年、アイユーブ朝のサラディンが十字軍国家へ侵攻。これをうけて、第3回十字軍が編成される。

ヨーロッパ 第3回十字軍と教皇インノケンティウス3世

 ヨーロッパでは、最強のローマ教皇インノケンティウス3世の時代。この時代に第3回十字軍が編成された。参加したのは、神聖ローマ皇帝(ドイツ)のフリードリヒ1世、フランス国王フィリップ2世とイングランド国王リチャード1世である。

 フリードリヒ1世は、進軍中に事故死。フィリップ2世も早々に撤退。リチャード1世のみが残り戦い続けた。

1190年代

日本 源頼朝が征夷大将軍に

 92年、後白河法皇が崩御。これにより、源頼朝は征夷大将軍になった。これが「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」につながる。

中国 官僚 vs 外戚

南宋では、宰相が外戚のいいなりになっていた皇帝を退位させた。その後、官僚たちは、外戚たちを次々と投獄していった。さらに、この頃に主流になった朱子学の弾圧を行った。

 この頃、金王朝は、モンゴルの侵攻に悩まされており、南宋へ侵攻する余裕はなかった。

西アジア ホラズム・シャーの侵攻

 第3回十字軍が講和。同じ頃、イラク(バグダード)では、セルジューク朝が滅亡。ホラズム・シャー朝が成立。

ヨーロッパ フランスvsアンジュー帝国

 92年、イングランド国王リチャード1世とアイユーブ朝(エジプト)のサラディンが講和。第3回十字軍が終わる。

 フランスのフィリップ2世は、国王不在の隙をついて、大陸のイングランド領へ侵攻。領土を拡大していった。

 南イタリアのシチリアでは、シュタウフェン家がシチリア王になる。