近代の中東

概要

 この章では、13世紀から16世紀のアジアを見ています。ここでのポイントは2つ。13世紀のモンゴル帝国と16世紀の大航海時代である。

 今回は、中東編です。ここでは3つの王朝を見ていきます。イランのティムール朝とサファヴィー朝。トルコのオスマン朝である。

前史

モンゴル帝国の衰退

13世紀のイスラーム

ティムール王朝(イラン)

ティムール朝の成立

 14世紀半ば、中央アジアは群雄割拠の時代であった。これを統一したのが、ティムールであった。

 ティムールは、70年に中央アジア(西トルキスタン)にティムール朝を開く。14世紀末には、イラク(バグダード)から中央アジアまで開く大帝国になった。

 15世紀に入ると、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利。皇帝(バヤジット1世)を捕虜にした。その後、永楽帝が治める中国(明王朝)へ侵攻しようとした。侵攻の直前で病死した。

トルコ=イスラム文化

 13世紀のイル=ハン国の時代に、イラン=イスラム文化が成熟した。

 14世紀後半にティムール朝が成立。これによって、中央アジアのトルコ人世界と中東のイラン人社会が統一された。これによって成立したのがトルコ=イスラム文化が成立した。首都のサマルカンドには、モスクと学院が建設された。サマルカンドは14から15世紀には商業や学問の中心地となった。

 宮廷では、イラン文学や細密画の傑作が作られた。また、トルコ文学の傑作も作られた。15世紀半ばには、ウルグ=ベクが天文台を建設。天文学や歴法も大いに発展した。 

ティムール朝の滅亡

 ティムールが亡くなると、ティムール朝は、分裂と統合を繰り返しながら衰退していった。そして、トルコ系遊牧民族のウズベクによって滅ぼされた。

オスマン帝国(トルコ)

オスマン帝国の成立(13世紀末)

13世紀、トルコは、セルジューク朝の一派であるルーム=セルジュークが治めていた。

13世紀後半になると、ルーム=セルジュークは衰退。諸侯たちが互い争うようになった。

13世紀末、ルーム=セルジュークの諸侯であるオスマン家がオスマン帝国を建国。ビザンツ帝国領のアナトリアへ侵攻。アナトリア半島を征服した。

バルカン半島へ進出(14世紀)

 14世紀半ばに入ると、オスマン帝国は対岸のバルカン半島へ侵攻した。都をアナトリア半島から、アドリアノーブルへ遷都した。

 14世紀末には、バルカン諸国とフランス、神聖ローマ帝国連合軍に勝利した。この戦いをニコロポリスの戦いと呼ぶ。

バヤジット1世(14世紀末)

 14世紀末、ニコロポリスの戦いに勝利したオスマン帝国は、いよいよビザンツ帝国の都コンスタンチノーブルへの侵攻へ向うはずだった。しかし、これはとん挫した。

 イランのティムール朝が侵攻してきた。オスマン帝国はアンカラの戦いで大敗。皇帝が捕虜になる大敗を喫した。

メフメト2世(15世紀)

 その後、オスマン帝国はバルカン半島で国力を回復させた。そして、そして15世紀半ばオスマン帝国はコンスタンチノーブルを占領。ビザンツ帝国を滅ぼした。

セリム1世(16世紀初頭)

 16世紀に入ると、イランのサファヴィー朝からシリアを奪った。さらに、マムルーク朝をほろぼし、エジプトまで国土を広げた。これにより聖地(メッカとメディナ)の保護権を手にし、カリフの地位を得た。

スレイマン1世(16世紀前半)

 16世紀前半、スレイマン1世が即位すると全盛期を迎えた。

帝国の停滞(16世紀後半)

スルタンの専制政治

イスラム法

 ここからは、オスマン帝国の政治システムを見ていきます。オスマン帝国は、スルタン(皇帝)が絶対的な権力を持っていた。しかし、そのスルタンでも、イスラム法(シャーリア)には従わなければななかった。

異教徒との共存

 オスマン帝国は、異教徒の多いバルカン半島を支配した。ここには東方正教会ユダヤ教を信仰する人が多かった。オスマン帝国は、異教徒に寛容であった。異教徒にミレット(宗教共同体)を組織させ、自治権を認めた。

 そのため、現在のバルカン半島には、さまざまな宗教を信仰をする人が混在している。

軍事力

 オスマン帝国の初期の主力部隊は、騎馬部隊であった。彼らは、シパーヒーと呼ばれた。給料の代わりに徴税権(イクター)が与えられた。日本の守護大名のような存在であった。

 しかし、オスマン帝国がバルカン半島に侵入すると、皇帝直属の歩兵部隊を組織した。彼らはイエニチェリと呼ばれた。彼らはバルカン半島の異教徒の子弟によって構成された。彼らは、当時の最新兵器鉄砲を使用し、シパーヒーに変わる主力部隊になった。

サファヴィー朝(イラン)

建国

 16世紀初頭、サファヴィー教団がサファヴィー朝を開く。サファヴィー教団のトップはイスマイール1世であった。都は、カフカス地方のアゼルバイジャンに置かれた。

 国教は、穏健シーア派の十二イマーム派とした。これは現在のイランの国教である。

全盛期

 16世紀後半、アッバース1世が即位。全盛期を迎える。

 オスマン帝国からカフカス地方(アゼルバイジャン)とイラク(バグダード)を奪回。ポルトガル人からホルムズ島を奪回。国土を拡張した。

 新首都イスファハーンを建設。イスファハーンは世界の半分といわれた。

 17世紀半ば、オスマン帝国にイラク(バグダード)を奪われて衰退していく。