60年代のエジプト
まずは、前回の復習をしましょう。50年代から60年代のエジプトは、ナセル大統領の時代であった。60年代は、ナセル大統領が第3次中東戦争に敗北し、影響力が大きく後退する時代を見ていきました。
さて、今回はナセル大統領がアラブの雄になる過程を見ています。キーワードは、第二次中東戦争とエジプト革命である。ナセル氏は、エジプト革命で王政を停止。ナセル大統領が誕生した。その後、第二次中東戦争で英仏に勝利。アラブの中心人物になる。
第三世界の台頭
50年代の世界情勢は、第三世界の台頭の時代である。具体的には、下記のようになる。
50年 | 朝鮮戦争 | 49年に建国したばかりの中華人民共和国がアメリカ合衆国に善戦。 |
54年 | ジュネーブ講和会議 平和五原則 | インドシナ戦争の講和会議。朝鮮戦争の結果をうけて、中華人民共和国やインドなどが講和会議に参加。 中華人民共和国の周恩来首相とインドのネルー首相が平和五原則を発表。第三世界の結束を呼び掛けた。 |
55年 | AA会議 | インドネシアのバンドンで開催。第三世界の結束を内外にアピールした。 |
56年 | 第二次中東戦争 | 軍事力では、英仏軍が圧倒的に優勢であった。しかし、第三世界の台頭を受けて、米ソが英仏に対して撤兵を要請。英仏は撤兵を余儀なくされた。 |
60年 | アフリカの年 | 第二次中東戦争の結果をうけ、英仏は植民施支配を断念。多くの植民地の独立を承認した。 |
アラブ連合共和国
第二次中東戦争後のアラブ諸国
エジプトが、第二次中東戦争に勝利すると、アラブでは反英仏の動きが活発化した。バース党政権下のシリアは、エジプトと合併。イラクでは、親英的な王政が崩壊。共和制へ移行した。そして、レバノンでは、アラブ人が暴動を起こした。
アメリカ、レバノンへ派兵
レバノンは、イスラエルとシリアに挟まれた地中海に面した国である。首都はベイルートである。地中海貿易で繁栄した関係で多くのキリスト教徒が生活していた。
レバノンは、43年にフランスから独立。主要ポストは、キリスト教徒、イスラム教スンニ派、イスラム教シーア派で分け合い、協力体制が構築された。しかし、48年の第一次中東戦争でイスラエルが建国。多くのイスラム教徒のパレスチナ難民が流入。人口のバランスが崩れた。しかし、イスラエルの脅威があり、暴動に至らなかった。
56年、イスラエルが、第二次中東戦争に敗戦。イスラエルの脅威がなくなった。58年2月、隣国シリアがエジプトと合併してアラブ連合共和国を建国。これを脅威に感じたのがキリスト教徒たちである。同58年5月、キリスト教徒たちは、現在持っている大統領の人気の延長を発表した。これに対して、イスラム教徒が反発。暴動が起きた。これがレバノン暴動である。
58年7月、イラク革命が発生。暴動がさらに過激化した。これに対して、キリスト教系の大統領は、アメリカのアイゼンハワー大統領に応援を要請。アイゼンハワー大統領はレバノン暴動に介入した。
キリスト教系の大統領が退陣。これにより、暴動は沈静化。アメリカも撤兵した。
イラク革命
アラブ民族主義の流れは、イラクにも影響を与えた。
イラクは、中東のほぼ中央にある国。首都はバグダードである。21年、イギリスの支援でイラク王国が建国した。国王はハーシム家が務めた。イラク王室は第二次世界大戦後も親米英政策をとっていた。
56年の第二次中東戦争、58年のアラブ連合共和国成立で、アラブ民族主義が加速した。58年7月、軍人たちが蜂起。イラク王家は倒れた。
イラク革命は、アメリカに脅威を与えた。アメリカのアイゼンハワー大統領は、アラブ民族主義のドミノを止めるため、レバノン暴動下のレバノンへの派兵を決定した。
イラクは、レバノン派兵を受けて、59年親米軍事同盟であるバグダード条約機構を脱退。バグダード条約機構は、中央条約機構に改称。本部をバグダードからトルコのアンカラに移動した。
エジプト、シリアと合併
シリアは、イスラエルの北にある地中海沿岸の国である。北にはトルコ、東にはイラクがある。
シリアは、第二次世界大戦後の46年にフランスから独立した。48年の第一次中東戦争で国土の一部をイスラエルに宇われた。
第一次中東戦争の前年の47年、首都ダマスカスで2人の青年が政党を作った。それがバース党である。バース党は、地中海からペルシャ湾までにおよぶアラブ民族の完全統合を目指した。経済政策では、私有財産の所有を認める社会主義経済を目指した。主たる敵は、欧米の巨大資本とイスラエルとされた。バース党は、第一次中東戦争の敗北でアラブ諸国に広がった。
バース党は、シリア国内でも支持を高め、政権を担うようになった。58年2月、バース党政権は、アメリカをけん制するために、エジプトと合併することを決めた。これで成立したのがアラブ連合共和国である。
しかし、この統合はシリア人から見ると、エジプト人のシリア占領に見えた。首都機能はエジプトにあり、官僚はエジプト人が務めた。61年、軍事クーデターでバース党政権が崩壊。シリアはエジプトとの合併を解消した。
第二次中東戦争(スエズ動乱)
構図
第二次中東戦争は、56年10月に起きたスエズ動乱とも呼ばれる戦争である。その要因は、ナセル大統領のスエズ運河国有化宣言にあった。では、どうしてエジプトは英仏に勝つことができたのであろうか、その前にスエズ動乱の構図を見ていこう。
エジプトのナセル大統領は3つの国と戦うことになった。イギリス、フランスとイスラエルである。
イギリスは、旧宗主国であり、スエズ運河の株主であった。そのため、スエズ運河の国有化に反対していた。
フランスもスエズ運河の株主であった。フランスにはほかにも参戦目的があった。アルジェリア問題である。フランスは、ナセル大統領がアルジェリア独立運動を支援していると考えていた。
イスラエルは、第一次中東戦争以降、エジプトとシナイ半島の領有権でもめていた。
展開
第二次中東戦争はどのように始まったのであろうか。イギリスは、イスラエルにエジプト侵攻へ動かした。圧倒的な軍事力のあるイスラエルは1週間でシナイ半島を占領した。ちなみにシナイ半島とは紅海と地中海の間にある半島で、イスラエルとえじぷとの間にある。ちなみにスエズ運河はシナイ半島の東にある。イギリスとフランスは、イスラエルがシナイ半島を占領したところで停戦を仲介しようとした。しかし、ナセル大統領はこれに応じなかった。そのため、イギリスとフランスはエジプトへ侵攻した。これが第二次中東戦争の始まりである。
米ソが英仏を非難
第二次中東戦争は完全にエジプトが劣勢であった。これに対して国際世論が反発した。56年は、AA会議の翌年に起きている。中華人人民共和国やインドなどの第三世界はこれを非難した。
これに最初に呼応したのが、ソ連である。ソ連はこの時ハンガリー事件で国際的な非難を浴びていた。それをかわすために、第二次中東戦争を利用した。
次に呼応したのがアメリカである。56年は大統領選挙の年である。アメリカ軍は、朝鮮戦争やインドシナ戦争で疲弊していた。アメリカの世論は反戦的であった。そのため、この時点で戦争を行うことはできなかった。そのため、アメリカもイギリスとフランスを非難した。
10月30日、国際連合の安保理事会が開催された。当然、イギリスとフランスは拒否権を行使した。翌31日、アメリカは緊急特別総会を開催。総会では拒否権が使えず、各国1票であるため第三世界が大きな影響力を持った。結果、アメリカが提案した停戦・撤兵決議案は採択された。
この決議により、イギリス、フランスおよびイスラエルは国際的に孤立。国連決議に基づいて撤兵した。これにより、スエズ運河国有化が成功した。
56年の国際情勢
では、改めて米ソがなぜ第二次中東戦争を非難したかを確認していきましょう。その要因は、主に3つある。
一つは、第三世界の台頭である。その象徴はAA会議の開催である。もともと巨大の植民地を持っていない米ソにとっては、かつての植民地帝国である英仏から市場を奪う最大のチャンスであった。
2つ目は、米ソの代表がともに国民の支持を必要としていた。アメリカは大統領選挙の年であった。大統領選挙は11月の第1週におこなわれるため、10月の中東戦争は大きな影響力を持った。一歩で、ソ連はスターリンがなくなったばかりで、フルシチョフ書記長が政権固めを行っている時期であった。ハンガリー動乱によって、フルシチョフ書記長は国内の支持が低下していた。
3つ目は、東西冷戦の緊張が緩和した時期であった。イギリスとフランスは、ソ連を仮想的にすることでアメリカを味方にすることができた。しかし、フルシチョフ書記長のスターリン批判によって、米ソ協調の道が開けていた。そのため、50年代後半は東西冷戦の緊張は緩和していた。
スエズ運河国有化宣言
スエズ運河とは
では、なぜナセル大統領は英仏を敵に回してでもスエズ運国有化宣言を出したのであろうか。このセッションでは、ナセル大統領がスエズ運河国有化宣言を出す経緯を見ていきます。
では、そもそもスエズ運河とはどのようなものでであろうか。スエズ運河は、地中海と紅海(インド洋)を結ぶ運河である。ヨーロッパから海運でアジアへ物資を運ぶ際には絶対に通らなければならない運河である。
スエズ運河は19世紀半ば、エジプト王室がフランスと共同出資して建設した運河である。そのため、建設当初はエジプトとフランスが共同経営していた。しかし、19世紀後半、エジプト王室が財政破綻。エジプト王室は、スエズ運河株をイギリスへ売却した。そのため、スエズ運河の利益は、イギリスとフランスへ流れることになった。
アメリカの支援停止
エジプト革命直後のナセル大統領とアメリカの関係はそれほど悪くはなかった。ナセル大統領は、54年に世界銀行の資金をおもとにアスワン=ハイダムの建設を開始した。
しかし、アメリカはイスラエルに対して武器提供を行った。そのため、ナセル大統領は、イスラエルに対抗するためにソ連に接近。ソ連からの軍事支援を受けることになった。
ソ連とナセル大統領の接近にアメリカは激怒。アメリカのアイゼンハワー大統領はエジプトへの資金提供を停止。世界銀行も漏れに同調した。これにより、アスワン=ハイダムの建設は中断した。
アスワン=ハイダムの建設は、第二次中東戦争後にソ連が資金援助を開始。60年に建設が再開。ナセル大統領がなくなる70年に完成した。
バグダード条約機構
50年代、中東ではソ連寄りの政権が生まれ始めていた。バース党のシリアとナセル大統領のエジプトである。
アメリカは、シリアとエジプトがソ連と連携することを懸念していた。そのため、アメリカの共和党アイゼンハワー大統領は55年2月中東で反共の軍事同盟を結成した。それが、バグダード条約機構である。
バグダード条約機構にはソ連の侵攻の恐れがあるイスラム圏の北部の国々(トルコ、イラク、イランおよびパキスタン)とイギリスが参加した。アメリカは国内世論をけん制するためオブザーバー参加となった。
一方、ナセル首相は、55年4月にAA会議に参加。第三世界の結束を高めた。56年6月、ナセル首相は国民投票で大統領に就任した。
スエズ運河国有化宣言
アメリカとエジプトの資金交渉は難航した。そして決裂した。ナセル大統領は新たな資金源に目を付けた。それがスエズ運河国有化であった。
56年7月、ナセル大統領は、一方的にスエズ運河国有化を宣言した。これに対し、イギリスとフランスは当初代替案を提案したが決裂。10月に第二次中東戦争が勃発した。
エジプト革命
ナセル大統領ってどんな人
ナセル大統領は、エジプト王室の青年将校であった。第1次中東戦争で活躍し名をあげた。
第一次中東戦争が終結すると、エジプト王室の腐敗を打破するために自由将校団を結成。このメンバーにはナセル大統領の後継者であるサダト氏も参加した。団長はナギブ氏がついた。
エジプト王室
エジプトは、18世紀前半のエジプト=トルコ戦争でムハンマド=アリーの世襲による統治がみとめられ、事実上のエジプト王国が成立。第1次世界大戦後の22年に正式にエジプト王国として建国した。
第1次中東戦争に敗北
第二次世界大戦が終結した45年にアラブ連盟が発足。47年に第1次中東戦争が勃発。イスラエルと戦うも敗北した。
その要因は、2つあった。1つ目は、エジプトは建国したばかりで訓練が不足していた。2つ目は王家同士の対立で1枚岩になれなかったことである。
第1次中東戦争の最前線で戦い続けた青年将校たちは、そのようなエジプト王室への不満を高めた。
エジプト革命へ
ナセルら自由将校団の過激派は、52年7月、軍事クーデターを実施。わずか数時間でエジプト全土を制圧した。ほぼ無血でクーデターは完遂した。
ナセルら自由将校団の過激派は、クーデターを完遂すると団長のナギブを本部に迎えた。自由将校団は、国王に最後通牒を突きつけ、国王は亡命。王位は、1歳の国王に譲位された。
農地改革
ナセル大統領は、9月に農地改革に乗り出した。王族の土地は没収をしたが、それ以外については穏健的に行われた。そのため、改革対象は全農地の10%にとどまった。
イギリス軍のスエズ運河撤兵
イギリス軍は、36年のエジプト=イギリス同盟条約でスエズ運河に駐屯していた。しかし、エジプト革命でこの同盟は無効になった。
イギリスとエジプト(自由将校団)は、交渉を繰り返した。54年10月に両国は同意。56年6月までに完全撤兵が約束された。これが56年7月のスエズ運河国有化宣言につながる。
共和政へ
翌53年1月に、革命評議会を設置。腐敗したワフド党を非合法化した。そして、政策の違いから、ムスリム同胞団や共産主義者の弾圧が行われた。6月には王政を停止。共和政へ移行した。ナギブ大統領が誕生し、ナセルは副首相の地位についた。
翌54年3月、ナセル副首相は、ナギブ大統領を軟禁し、首相に就任した。10月にはイギリス軍の撤兵が決まった。