1940年代前半のエジプト 第二次世界大戦とワフド党

40年代後半のエジプト

 40年代後半のエジプト最大の出来事は、第一次中東戦争での敗北である。これによってエジプト王室の権威はおち、52年のエジプト革命につながる。

 さて、今回は、前半でエジプト王国の様子を見ていき、後半ではエジプトを中心に北アフリカでの第二次世界大戦の様子をいていきます。

エジプト王国とワフド党

エジプト王国

 20世紀後半のエジプト王国は、1830年代に成立したムハンマド=アリー朝の時代である。ムハンマド朝の時代は大きく3つの時代に分けることができる。

  • 1840年代~ 建国者ムハンマド=アリーの時代
  • 1870年代~ イギリスの植民地支配
  • 1920年代~ ワフド党と立憲君主制の時代

 今回は、1920年代以降のワフド党時代のエジプト王国を見ていきます。第一次世界大戦以降、イギリスの統治は少しずつ弱くなった。これにより、エジプトでも自治権が拡大した。憲法が制定され、立憲君主制へ移行していた。政治は、自治権拡大で活躍した。ワフド党がつとめた。

ワフド党

 ワフド党は、第1次世界大戦期にエジプトのイギリスからの完全独立を求めて戦った組織である。20年代に内閣を組織。30年代にはイギリスと条約を締結し、実質的な独立を確保した。

第二次世界大戦

第二次世界大戦の概要

 第二次世界大戦は、日独伊と米英の戦いであった。ドイツは、第一次世界大戦でアフリカのすべての植民地を失った。一方板ラリアはエジプトの西、リビアを植民地にしていた。

アラブ連盟

 第二次世界大戦も終盤に入った45年3月、エジプトは欧米諸国からの独立を勝ち取るため、新たな国際組織を結成した。これがアラブ連盟である。ここには、独立したばかりのアラブ諸国が参加した。イギリスから独立したハーシム家のイラク王国とヨルダン王国、サウード家のサウジアラビア王国、シーア派のイエメン王国。フランスから独立したしたシリアとレバノンである。

カイロ会議

 43年11月上旬、日本の東条英機内閣は大東亜会議を開催。大東亜宣言を発表し、日本がアジア解放の代表であることを国際世論に訴えた。

 日本と戦争状態にあった米英は、これに危機感を覚えた。11月のテヘラン会談の前に急遽カイロ会談を行った。日露戦争の影響で多くの国が独立した中東諸国で実施することは皮肉な結果である。

 参加者は、アメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相、そしてアジア統治の代表として中華民国の代表として国民党の蒋介石が参加した。

 米英は、テヘラン会談に蒋介石を呼ぼうとした。しかし、日本側への配慮の観点から、蒋介石との面談を拒否した。当時、日本とソ連の間には日ソ中立条約があったためである。ここからは私の主観だが、ソ連は、この時点から中華民国のリーダーに共産党の毛沢東を据えようとしていたのではないかと考えている。そのために蒋介石との面談を拒否したのではないかと考えている。

 この会談で、以下の3点が日本の降伏条件として決定された。これをカイロ宣言という。

  1. 日本は、満州、台湾と澎湖諸島を中華民国に返還する。
  2. 日本は、1914年(第一次世界大戦開戦時)以降に獲得した太平洋上の領土を放棄する。
  3. 朝鮮は、適当な時期に独立する。

 41年の日米交渉時には、朝鮮の独立は触れられていなかったが、朝鮮国民を味方につけたいアメリカは朝鮮の独立を追加した。そのため、独立が認められなかった台湾は親日になり、独立が認められた朝鮮半島は反日になった。

 カイロ宣言では、東南アジアについては触れられていない。それはイギリスが引き続き東南アジアの統治を模索していたからと推測される。事実、この会談ではベトナムの統治についてもめた。イギリスはベトナムの統治を引き続きフランスに任せようとした。しかし、アメリカは、ベトナムを中華民国に統治させようとした。その結果、東南アジアについてはカイロ宣言には記載されることはなかった。

第二次世界大戦とアフリカ

イタリアの降伏

 最後に、北アフリカでの第二次世界大戦様子をさかのぼり型で見ていく。

 カイロ会談の行われた43年には、北アフリカでの戦闘はほぼ終結した。

 43年7月、米英軍は、イタリア南部のシチリア島に上陸。イタリア国王は、ムッソリーニ首相を解任し、逮捕した。新政権は、米英と休戦協定を結んだ。これに対し、ヒトラーはイタリアへ進軍。戦争の舞台は北アフリカから、イタリアへ移った。

チュニジアの戦い

 ドイツ、イタリアの最後の拠点は、北アフリカの真ん中にあるチュニジアであった。フランスは、ナチスドイツの占領下であった。

 42年11月、米英軍はチュニジアへの総攻撃を始めた。独伊軍は、フランスとイタリアから物資を供給しこれに応戦した。

 翌43年1月、アメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は、制圧されたばかりのモロッコのカサブランカへ入った。2人の首脳は、軍隊を激励するとともに、イタリアへの上陸作戦の検討を始めた。

 翌43年2月、ドイツ軍がスターリングラードの戦いでソ連軍に大敗。ドイツ・イタリア軍の士気は下がった。

 そして、5月、ドイツ・イタリア軍は降伏。これで北アフリカで戦争は終結。この2か月後の7月、米英軍は、イタリアへ侵攻した。

米英の反攻

 42年6月、ワシントンで米英の首脳会談が開かれた。この会談の直前、アメリカ海軍は、ミッドウェー海戦で日本軍に快勝した。

 この会談で、米英は旧フランス植民地のアルジェリアとモロッコの侵攻を決めた。この侵攻を指揮することになったのは後に大統領になるアイゼンハワー司令官である。

 42年11月、アイゼンハワーし司令官率いる米英軍は、アルジェリアとモロッコへ侵攻。フランスのヴェルシー政権は米英と休戦協定を結ぶ。これに反発したドイツはフランス全土を占領した。同じ11月、ナチスドイツは、スターリングラードでソ連との大激戦が始まった。

 一方、アルジェリアとモロッコは米英の影響下に入った。ここから、チュニジアの戦いが始まる。

スペインのフランコ将軍

 モロッコの北にあるスペインはこの時どのような状況であったのであろうか。スペインは、フランコ将軍の時代である。

 フランコ将軍は、ナチスドイツの支援でスペインに内戦に勝利した。しかし、スペインは第二次世界大戦では中立の立場をとった。

 40年6月、ナチスドイツがパリを占領した。これに乗じて、フランス植民地のモロッコへ侵攻した。イギリスとアメリカは、スペインの中立を維持するために様々な工作を行った。

 40年10月、フランコ将軍とヒトラーが会談。アフリカへ侵攻したいフランコ将軍と対ソ戦に備えたいヒトラーが対立。スペインは中立を継続した。

 41年6月、独ソ戦が始まると、フランコ将軍はドイツに援軍を送った。しかし、ドイツ・イタリアの敗戦が濃厚になると再び中立を宣言。イギリス・アメリカへ接近しつつも参戦は拒み続けた。

エジプト攻防戦

 第二次世界大戦のアフリカの戦闘は、エジプトから始まった。アフリカの西にはリビアという国がある。ここはイタリアの植民地であった。

 当時、エジプトのイギリス軍はスーダン(南)とスエズ運河(東)に限られていた。そのため、リビアとの国境である西側にはイギリス軍はいなかった。これは、36年のエジプト=イギリス同盟条約によるものであった。

 しかし、リビアのイタリア軍は容易にエジプトへ侵攻することができなかった。エジプトの反対側のアルジェリアにはフランス軍がいたためである。

 40年6月、フランスがドイツの支配下に入った。イタリアはこれを好機ととらえて、40年の秋にエジプトへ侵攻した。

 初戦は、イタリアが優勢であった。しかし、40年の冬、イギリス軍が反攻(コンパス作戦)。2月には、リビアまで侵攻した。しかし、ナチスドイツがバルカン半島へ侵攻したため、リビアへの侵攻をやめ、エジプトのイギリス軍はバルカン半島へ向った。

ドイツ、フランスを占領

 40年6月、ナチスドイツはパリを陥落。フランスは親ナチスのヴェルシー政権が成立した。広大なフランスの植民地がドイツの手に渡ったことを意味した。このうち、ベトナムなどのアジアの植民地は同盟国の日本に譲られた。

 ドイツは、第一次世界大戦の敗戦で海外植民地のすべてを放棄した。フランスの占領は約20年ぶりの植民地の獲得であった。

 フランスのアフリカの主要な植民地はアフリカ北西部のアルジェリアやモロッコであった。

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