ベトナムの市場開放
ベトナム
ベトナムは、東南アジア半島部の東側に位置する国。古代から、中国の影響を受けてきた。帝国主義時代はフランスの植民地になる。第二次世界大戦後、インドシナ戦争、ベトナム戦争を経て、共産党政権がようやく成立する。
ドイモイとは
ドイモイとは、86年に始まったベトナムの市場経済導入政策である。
社会主義国では、企業はすべて国有化され、給料や生産量は国家が決めていた。市場主義の導入とは、日本やアメリカのように生産量の決定権限を企業に移譲。経営者や労働者のやる気を引き出そうとする政策である。
ドイモイは、日本語で「刷新」を意味する。86年に新書記長になったグエン=ヴァン=リン氏が進めた。それを支援していたのが経済学者のオアイン氏である。
オアイン氏は、第二次世界大戦中で日本へ留学。第二次世界大戦後は、アメリカへ渡り、IMFに就職。南ベトナム政府(ジエム政権)の要請で帰国した。オアイン氏は南ベトナム政府の中央銀行総裁になる。しかし、ベトナム戦争で南ベトナム政権が崩壊。オアイン氏は蟄居の身となった。その後、改革派の目に留まりドイモイの推進者として政界に復帰する。
背景① ポート=ピープル
では、ベトナム共産党の改革派が政権を突ことができたのであろうか?その理由は2つある。一つ目はポート=ピープルである。
南ベトナムの人々が社会主義政権を恐れ、国外へ亡命した。その多くは富裕層であった。このポート=ピープルによってベトナム政府は国際的に非難を浴びた。
背景② ペレストロイカ
ベトナム共産党は、親ソ政権であった。そのソ連では、85年に市場経済の導入ことペレストロイカが始まった。ベトナムもこれに追随した。
また、中国も80年代に入り、鄧小平政権が成立。市場開放路線をとっている。
カンボジアから撤兵
カンボジアでは、親ベトナム政権が成立していた。一方で、ポル=ポト派などの反政府勢力との内戦も続いていた。そのため、ベトナム軍は、カンボジアに駐留していた。
この背景には、中ソ対立があった。ベトナム共産党は、ソ連を支持していた。一方で、反政府勢力のポル=ポト派を支援していたのは中国であった。カンボジア内戦は中ソ対立の代理戦争であった。
80年代にはいり、新冷戦が勃発。アメリカも反政府勢力を支持するようになった。
そして、89年のマルタ会談で冷戦が終結。ベトナムはソ連という後ろ盾を失った。これにより、ベトナムはカンボジアから撤兵した。
NIEsと日本のバブル
ニクソンショックがおこり、急激な円高が発生。多くの企業がほかのアジア諸国に生産拠点(工場)の建設を進めた。85年のプラザ合意はこれに拍車をかけた。
これにより、タイやインドネシアでは急激な経済成長が進んだ。これらの地域はNIEsと呼ばれた。経済成長に伴い人件費が高騰した。
ベトナムのドイモイ政策はこのような状況で導入された。多くの企業は人件費がまだ高くないベトナムへ生産拠点(工場)へ移すようになった。これにより、NIEsの経済成長は鈍化した。これが、90年代後半のアジア通貨危機につながっる。
カンボジア内戦と国際情勢
カンボジア内戦は、70年代から80年代の国際情勢を最も表している。70年代の中ソ対立で、アジアは3つの国の影響を色濃く受けるようになった。アメリカ、ソ連と中国である。
70年代の中ソ対立で、社会主義勢力(左派勢力)は中国系とソ連系に分かれた。中国系の代表がポル=ポト派であり、ソ連系の代表がベトナム共産党である。
80年代に入ると、新冷戦が勃発。ソ連系の左派政権は孤立する一方で、アメリカと中国の結びつきが強くなった。
アメリカ | 中国 | ソ連 | |
カンボジア | 親米右派 | ポルポト派 | 親ベトナム政権 |
日本 | 自民党 福田派 | 自民党 田中派 | 社会党 |
ミャンマー アウンサンスーチー氏の自宅軟禁
80年代、ミャンマーは軍事政権下にあった。88年、東欧で民主化の動きが出始める。これにより、ミャンマーでも民主化の動きが出始めた。
アウンサンスーチー氏はNLD(国民民主連盟)を結成し、ミャンマーの民主化を進めた。88年9月に全国的な民主化デモが行われた。
軍部独裁政権は、これを武力で鎮圧。アウンサンスーチー氏を自宅軟禁に置いた。
89年6がつ、軍事独裁政権は国号をビルマからミャンマーに変えた。
中国との国交正常化(インドネシア)
インドネシアは、スハルト大統領の開発独裁政権下にあった。スハルト大統領は、反共勢力の筆頭であり、中国との国交を断絶していた。
88年、インドネシアと国交正常化交渉が始まる。89年、天安門事件で中国が孤立化するとそれは加速した。90年、中国はシンガポールと国交正常化。翌91年、インドネシアと国交正常化が成立する。