紀元前1世紀、トルコ・ギリシャはローマ帝国の支配下にあった。今回は当時のローマの様子とローマの属州の統治方法を見ていきます。
属州とは
属州とは、共和政ローマ(ローマ帝国)に支配されたイタリア半島以外の地域を指す。
共和政ローマは、属州に対し十分の一税を課した。共和政ローマは徴税官として総督を属州に派遣した。総督は、十分の一税に上乗せをして徴収し、私腹を肥やした。
また、属州の多くの人々を奴隷とした。彼らは大規模農場で穀物生産をおこなった。このような奴隷を使った農業システムをラティフンディアと呼んだ。
共和政ローマとシリア
エジプト征服
エジプトは、プトレマイオス朝の時代である。プトレマイオス朝とは、アレキサンダー死後(紀元前4世紀)にマケドニアの分裂によって成立した国である。当時はギリシャ人がエジプトを支配していた。クレオパトラもギリシャ人である。
紀元前1世紀、プトレマイオス朝はクレオパトラの時代である。共和政ローマとは良好な関係を築いていた。第1回三頭政治の時代には、セレウコス朝シリアを攻めるポンペイウスを支援した。カエサルがポンペイウスをローマから追放した際、ポンペイウスはエジプトへ亡命した。エジプトの人々はポンペイウスを殺害。カエサルに引き渡し、カエサルと良好な関係を築いた。カエサルの死後は、カエサルの死後はアントニウスと結んだ。
ローマで内戦が勃発。プトレマイオス朝エジプトはアントニウスとともに、オクタウィアヌスと戦うことになった。アクティウムの海戦である。プトレマイオス朝エジプトはオクタウィアヌスにやぶれ、滅亡した。クレオパトラもこの時自殺した。
共和政ローマはエジプトを属州にした。穀倉地帯のエジプトを獲得するとともに、インド洋に進出。インドのサータヴァーハナ朝との季節風貿易が始まった。
シリア征服
シリアや小アジアは、セレスコス朝シリアが存在した。セレウコス朝シリアは、アレキサンダー大王死後(紀元前4世紀)にマケドニアが分裂して成立したギリシャ人黒海である。建国当初はペルシャまで征服していたが、東半分はイラン系遊牧民族国家パルティアに奪われた。また、ユダヤ人に自治を認めていた。
セレウコス朝シリアは、第1回三頭政治の時にプトレマイオス朝エジプトの支援受けた共和政ローマのポンペイウスによって滅亡した。
これにより、シリアや小アジア(トルコ)とともに、キリストが誕生する前のパレスチナは共和政ローマの属州となった。また、シリアの地をめぐり共和政ローマとイランのパルティアとの長きにわたる戦いが始まった。
共和政ローマ
オクタウィアヌス帝政
ローマ帝政は、紀元前1世紀末に始まった。紀元前31年、オクタウィアヌスはアントニウス・クレオパトラ連合軍に勝利した。紀元前27年、元老院はオクタウィアヌスに皇帝(アウグズティヌス)の称号与えた。ここから、ローマ帝国が始まった。
第二回三頭政治
カエサルが暗殺されると、再び三頭政治がはじまった。アントニウスとレピドゥス、オクタウィアヌスによって元老院対抗した。
アントニウスはパルティア(イラン)と戦闘を、オクタウィアヌスはイタリアの復興を担当した。アントニウスはプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラド同盟を結んだ。
レピドゥスが失脚すると、アントニウスとオクタウィアヌスの対立ははげしくなった。ここで行われたのがアクティウムの海戦である。
オクタウィアヌスは、アントニウスを破り三頭政治がおわりオクタウィアヌスの独裁が始まることとなった。
カエサル独裁
カエサルは、ポンペイウスをローマから追放すると独裁が始めた。ポンペイウスは、プトレマイオス朝エジプトに逃れた。しかし、プトレマイオス朝エジプトはポンペイウスを殺害。カエサルについた。
第1回三頭政治
共和政ローマは、貴族たちの門閥派と平民たちの平民派の対立が続いていた。1世紀前半は、門閥派が政治の中枢を担っていた。平民派のカエサルは冷遇されていた。カエサルは、セレウコス朝シリアに勝利した英雄ポンペイウスと資産家クラッススを味方につけて執政官(コンスル)になった。
カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第1回三頭政治がここに始まった。
カエサルは人気を終えると総督としてガリア(フランス)へ向った。クラッススがパルティアとの戦いで戦死すると、ポンペイウスが門閥派と結んでクーデターを起こす。カエサルはガリアから帰国しポンペイウスをローマから追放。三頭政治がここに終わった。