イランの歴史

概要・地理

  イランは、ペルシャと呼ばれる地方で、ペルシャ人の国家である。中東の東にあるイラン高原にある国である。東は、パキスタン・インド。南はインド洋(アラビア海)とペルシャ湾、北はロシアに接している。

現代

冷戦後

1988年にイラン・イラク戦争が終わると、イランは戦場から復興の道へと舵を切ります。初代最高指導者ホメイニ師の死後、ハメネイ師がその座を継ぎ、現在までトップとして君臨しています。政治の世界では、国際社会との対話を重視する「改革派」と、核開発や反米姿勢を崩さない「保守強硬派」が交互に大統領を出し、激しく揺れ動いてきました。この歴史の舞台裏で絶大な権力を握るのが「イスラム革命防衛軍」です。彼らは軍事だけでなく経済の主要部門も支配し、体制を守る最強の柱となっています。2015年の核合意とその後の米国の離脱、さらに物価高や女性の権利を巡る抗議デモなど、今も内憂外患の課題は山積みですが、中東の要としてイランの動向は常に世界から注目されています。

冷戦期

 第二次世界大戦後、パフラヴィー2世は親米・親欧米路線を推進しました。1950年代、モサッデク首相が石油国有化を断行しましたが、米英の介入により失脚。その後、国王は「白色革命」による近代化を強行しましたが、経済格差の拡大や独裁への不満が高まりました。

 1979年、ホメイニ師を指導者とするイラン革命が勃発。親米王政は崩壊し、反米・政教一致のイラン・イスラーム共和国が成立しました。これに危機感を抱いた隣国イラクのサッダーム・フセインが侵攻し、1980年から1988年にわたるイラン・イラク戦争に突入。凄惨な消耗戦の末、両国は疲弊し停戦を迎えました。

大戦期

19世紀末のカージャール朝は、イギリスやロシアの介入により苦境に立たされていました。これに対し、国民が民主化を求めた「立憲革命」が起こります。混迷の中、1925年に実権を握ったのが軍人出身のレザー・シャーです。彼はパフラヴィー朝を創設し、国号を「イラン」に変更。鉄道建設や教育改革など、強引なまでの近代化・世俗化を進めました。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、親ドイツ的な態度を危惧したイギリスとソ連がイランに侵攻します。結局、レザー・シャーは退位させられ、息子のモハンマド・レザーが跡を継ぐことになりました。列強の思惑と近代化への熱望が交錯した、まさに激動の時代だったと言えます。

近代

幕末・明治

 19世紀後半のカジャール朝は、まさに「列強の荒波に揉まれた時代」でした。当時のイランは、北からはロシア、南からはイギリスという二大強国に挟まれ、領土や資源を狙われる半植民地のような苦しい状況にありました。

 国王(シャー)たちは、自身の贅沢な生活費や近代化の資金を補うため、鉄道の敷設権やタバコの独占販売権といった国の重要な利権を次々と外国へ売り渡してしまいます。これに対し、ついに民衆の怒りが爆発しました。1891年に起きた「タバコ・ボイコット運動」では、宗教指導者や商人、知識人が団結して国王に抵抗し、利権の撤回を勝ち取ったのです。

 この出来事は、イランの人々が「自分たちの国は自分たちで守る」という自覚を持つ大きな転換点となりました。華やかな宮廷文化の裏側で、後の民主化を求める「立憲革命」へと繋がるエネルギーが静かに、しかし力強く蓄えられた激動の時期だったと言えます。

江戸時代

 15世紀、混迷が続いたペルシャに大きな転機が訪れます。16世紀初頭に成立したサファヴィー朝は、シーア派を国教に定め、現在のイランの文化的・宗教的な土台を築きました。全盛期のアッバース1世は、首都イスファハーンを「世界の半分」と称えられるほどの美しい国際都市へと発展させました。

 17世紀は、アジアの最盛期です。サファヴィー朝は、トルコのオスマン朝、インドのムガル帝国、中国の清王朝とともにアジア4大帝国の時代を迎える。

 しかし、18世紀に王朝が崩壊すると再び混乱の時代へ。18世紀末にカージャール朝が成立しますが、19世紀に入るとロシアやイギリスといった列強の圧力にさらされます。ロシアとの戦争に敗れて領土を失うなど、誇り高い帝国が近代化の波と外国の干渉に翻弄され始める、苦難の幕開けとなりました。 近世に入ると、サファヴィー朝が成立。17世紀には、アジア4代帝国の時代を迎える。その後、サファヴィー朝は滅亡。戦乱の時代を経て、イラン系のカジャール朝が成立する。

中世

武家の時代

12世紀のペルシャはセルジューク朝の衰退後、ホラズム・シャー朝が勢力を広げましたが、13世紀に最大の試練を迎えます。モンゴル軍の襲来です。チンギス・ハンらによる侵攻は都市を破壊し甚大な被害を与えましたが、その後に成立したイル・ハン国では、モンゴル人がイスラム教に改宗し、ペルシャ文化を保護する側に回りました。

14世紀、イル・ハン国が崩壊すると混乱が続きますが、末期には「征服王」ティムールが台頭します。彼は各地を征服する一方で、芸術や科学を重んじ、後の洗練された文化の土台を築きました。モンゴルとティムールという強大な外圧を受けつつも、ペルシャの知性がそれらを飲み込み、独自の融合を遂げた不屈の時代です。


公家の時代

7世紀、長年続いたササン朝がアラブ軍に敗れ、ペルシャはイスラム世界へと組み込まれました。この大きな変化の中で、人々の信仰は徐々にイスラム教へと移り変わります。しかし、ペルシャ人が培ってきた高度な行政技術や学問は、イスラム帝国の発展を支える不可欠な力となりました。

9世紀から10世紀にかけては「イランのルネサンス」と呼ばれます。サーマーン朝などの現地王朝が勢力を盛り返し、ペルシャ語による文学や科学が花開きました。11世紀にトルコ系のセルジューク朝が支配を広げますが、彼らもまたペルシャ文化を深く愛し、重用しました。武力で征服されながらも、文化の力で勝者を魅了し続けた、イランの知性と底力が光る時代です。

古代

紀元後

1世紀のペルシャは、遊牧民族系のパルティアが支配し、シルクロードの要所としてローマ帝国と対峙していました。しかし3世紀、より強力な中央集権国家であるササン朝が誕生します。彼らはゾロアスター教を国教に定め、独自の壮麗な文化を花開かせました。

ササン朝はシャープール1世やホスロー1世といった名君のもとで全盛期を迎え、東ローマ帝国と覇権を争いながら、東西交易で莫大な富を得ました。その高度な金属工芸や建築技術は、はるか遠く日本の正倉院の宝物(漆胡瓶など)にも影響を与えたと言われています。古代ペルシャがオリエントの覇者として最も輝いた、誇り高き黄金時代でした。

紀元前


紀元前6世紀、キュロス大王が建国したアケメネス朝は、オリエントを統一した史上初の「世界帝国」です。広大な領土に「王の道」を整備し、各地の文化や宗教に寛容だったこの帝国は、後の帝国統治のモデルとなりました。

しかし、アレクサンドロス大王の遠征により帝国は一度滅び、ギリシャ文化が融合するヘレニズム時代が続きます。その後、紀元前3世紀に興ったパルティアが、シルクロードの覇者としてペルシャの勢力を再興しました。彼らは強力な騎馬軍団でローマ帝国と互角に渡り合い、東西交易の中継点として栄華を極めました。古代文明の頂点とも言える、圧倒的なスケールの歴史がここから始まったのです。

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