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歴史総合では何を学ぶの?

 こんにちは、sekaishiotakuです。今回は、教科書の目次を見て、どのようなことを学ぶかを見ていきます。

一層難しくなった教科書

 教科書の目次をみて、一層わかりにくくなった印象を受けます。それは時系列順ではない点です。これは、教育系Youtuberのムンディ先生も指摘している点である。特に第1部はそれがよく現れている。山川の歴史総合の教科書では、第2章でヨーロッパの西洋史を学ぶ一方で、日本史については、19世紀後半の歴史を第2章の後半と第3章に分けて学ぶことになる。

 初学者は、いつのどこの時代を勉強しているのか意識しないと、定期テストでは得点できても、入試ではさっぱりということになる。

3つのテーマ

 教科書は、学習指導要領が設定する近現代を3つに分けて、それぞれにテーマを設定している。時代区分は、日本史をベースにしている。

  • 近代化と私たち 開国・幕末〜日清日露戦争
  • 大衆化と私たち 大戦期
  • グローバル化と私たち 戦後史

本当は、4つのテーマ

 学習指導要領では、これ以外にもう1つテーマを設定しています。これが、イントロダクションに書かれている「歴史の扉」である。ここでは、歴史の勉強の仕方と歴史を学ぶことで身につけてほしい能力を記載している。

近代化とは

 〇〇化とは、AがBに変わるときに使われる。歴史総合に共通するテーマは、江戸時代の人々と現代の私たちとの違いを認識することから始まる。

 近代化は、私は2つの言葉に分けられると思っている。西欧化と工業化である。江戸時代の人々は、和服を着ていた。しかし、現在、和服を日常的に来ている人は少ない。これが西欧化である。また、江戸時代は、江戸時代は手織物がほとんどであったが、現在は、ほとんどの人が工場で作られた服を着ている。これが工業化である。

 ここでは、日本が工業化、西欧化していく過程を見ていきます

大衆化と私たち

 大戦期の歴史を見ていくのですが、ここでは階級社会の崩壊過程を見ていきます。大戦期以前は、金持ちの男性しか政治に参加することができなかった。しかし、現在は18歳以上であれば誰でも投票できる。この変化の理由とその影響を見ていきます。

グローバル化と私たち

 ここでは、戦後史を見ていきます。冷戦、アジア・アフリカ諸国の独立、冷戦の集結などの国際状況の変化が私たちの生活にどのような影響を与えたかを見ていきます。

 次回は、共通テストのサンプル問題にチャレンジしてみようと思います。

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新科目 歴史総合とは?

 こんにちは、sekaishiotakuです。遅ればせながら、進級、進学、就職をなされた皆さん。おめでとうございます。新生活が良いものになることを祈念しております。

歴史総合が始まりました。

 この4月から、新科目「歴史総合」が始まりました。3回に分けて、歴史総合の科目を見ていきます。

 歴史総合の特徴は2点です。

  • 世界史と日本史を結びつけて勉強する。
  • 近代(江戸時代中期以降、18世紀以降)〜現在までが対象になっている。

 今回の変更は、古代中世に対して近代以降の知識が乏しくなっている。日本の歴史について語れない若者が多いことが背景にあるとされている。

 現在の教科書との関係は以下の通りである。

  • (必修)歴史総合 ← (必修)世界史A + (選択)日本史A
  • (選択)世界史探求 ← (選択)世界史B
  • (選択)日本史探求 ← (選択)日本史B

 指導要領では、世界史と日本史を結びつけ学ぶこととされていますが、教科書では、世界史Aと日本史Aの教科書をミックスした内容で結びつきまでは、行っていないようです。

歴史総合の科目で求める能力

 指導要領では、歴史総合の目標が設定されています。各種入試はこの目標を意識した出題になると考えられます。

知識と技能

 目標1では、歴史に関する知識と技能について、設定されています。

 知識では、具体的な出来事などを通じて、歴史用語(大枠など)を理解することが求められています。今年の共通テストでは、日本がファシズム国家であるか否かについて、YESの視点とNOの視点でそれぞれ回答を求める問題が出ていました。

 技能としては、課題に対して、情報収集する能力、収集した情報分析する能力と分析した情報に基づいて解決策をまとめる能力が求められています。共通テストでは、教科書に記載のない内容を初見の資料から読み取って回答する問題が増えています。

思考力、判断力、表現力

  • 歴史的事象を多面的・多角的に考察する思考力
  • 課題を把握して、様々な立場や意見を踏まえて、解決する判断力
  • 自分の考えを論理的に説明する表現力
  • 史料などのを用いて、効果的に説明する表現力
  • 他者の主張を踏まえて、議論する表現力

グローバル人材の育成

 グローバル化により、日本について外国の人々に語る機会が多くなってきています。外国の方に日本の良さを知ってもらえる人材を育成することが目的になっています。しかし、外国の方への配慮もまた求められています。ヘイトスピーチのようなものも是正していかなければなりません。

大学入試への影響

 大学入試の変更は、3年後の2025年から変更される。共通テストを実施する大学入試センターは、すでに2025年度の試験科目とサンプル問題を公表している。

 試験科目は、社会科(地歴+公民)で6科目設置し、うち2科目まで受験することになる。必修のみと必修+選択科目になっている。

  1. 歴史総合+世界史探求
  2. 歴史総合+日本史探求
  3. 地理総合+地理探求
  4. 公共+倫理
  5. 公共+政治経済
  6. 歴史総合、地理総合、公共から2科目

 多くの国公立大学は、1〜3から1科目、4,5から1科目を指定してくると予想されます。

 世界史Bの共通テストは、歴史総合を意識した出題になっています。近現代に関する比重が高まり、日露戦争など日本史に関わる問題も数多く出題されています。

  次回は、歴史総合の中身を見ていきます。

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2020年代の自民党 菅首相とコロナ対策

自民党とは

議院内閣制と内閣総理大臣

 日本は、議院内閣制を採用している。議院内閣制とは、直接選挙ではなく、国会で内閣総理大臣を指名する。そのため、原則として、衆議院の第1党のトップが内閣総理大臣になる。

 自民党のトップは、総裁である。すなわち、自民党の総裁選挙とは内閣総理大臣を決定する選挙ということになる。

自民党総裁選挙

 自民党の総裁の任期や選挙の方法は、自民党の党則によって規定されている。すなわち、法律ではないので、自民党の党大会で自由に規定することができる。

 ちなみに、内閣総理大臣については、任期の規定はない。国会の信認があれば、法律上はいつまでも総理大臣を続けることができる。自民党の総裁の任期が、内閣総理大臣の任期となる。

 自民党党則では、総裁の任期は、3年で連続3期まで続けることができる。すなわち、自民党の総裁選挙は3年に1度行われる。任期途中で、総裁が辞任した場合も総裁選挙が行われる。しかし、この時の任期は前総裁の残りの任期となる。

 総裁選挙に立候補するには、20名の国会議員の推薦を必要とする。20名未満の中小派閥や無派閥の議員は、ほかの派閥からの支援を必要とする。

 選挙は、党員投票50%と国会議員投票50%で決定する。

 党員は、直近2年間の党費を払った人に投票権が与えられる。総裁選のために慌てて自民党員になっても党員投票に参加ができない。

勝ち馬に乗れ

 では、各派閥は総裁候補者に見返りを求める。主なものは以下である。

  • 内閣のポスト(〇〇大臣)
  • 自民党のポスト
  • 総選挙の公認
  • 資金の分配

 総裁選に敗北すると、これらの見返りが得られない。そのため、自分の派閥であっても勝てないとあれば推薦人を出さない。

派閥とは

 派閥とは、もともと同じ志を持つ者の勉強会が始まりである。しかし、70年代の角福戦争の時代になると、総裁選挙を意識して派閥を選ぶようになっていく。

現在の派閥

現在の最大派閥、細田派

 小泉首相、安倍首相を輩出した最大派閥。91名が所属。

 政策では、軍事ではタカ派(安全保障重視)。外交では親米。しかし、経済政策ではリベラル(積極財政)の場合も多い。

 21年、総裁選では積極財政派の高市氏を推す予定。

麻生副総理率いる、麻生派

 副総理の麻生元首相率いる第2派閥。55名が所属。主力議員では、河野ワクチン担当大臣が所属している。

かつての主流派、竹下派

 田中首相、竹下首相、橋本首相、小渕首相などをかつての主流派。現在、52名が所属。

現在の会長は、竹下首相の兄である竹下亘氏である。

二階幹事長率いる、二階派

 二階幹事長率いる派閥。中曽根首相を輩出した派閥。現在、46名が所属。

名門、岸田派

 宮沢首相などを輩出した歴史の長い名門派閥。現在、46名が所属。会長の岸田氏が2021年の総裁選に立候補を表明。

新興派閥、石破派

 もともと、無所属であった石破氏が新たに設立した派閥。現在、17名が所属。

石原派

 YKKの一角、山崎拓氏が作った派閥。現在の会長は石原氏。現在、10名が所属。

現職総理の菅グループ

 正式な派閥ではないが、菅首相も政治グループを持っている。

2021年自民党総裁選挙

 2021年に入っても、コロナは終息しなかった。そのため、何度も

菅首相の誕生

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本能寺の変の頃の世界は?

 今日は、大河ドラマの最終回で本能寺の変が放映されます。これに便乗して、本能寺の変が行われたころ(1582年)の世界はどのような時代だったのでしょうか。

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7世紀のフランク王国 イスラム教の成立とメロヴィング朝の衰退

7世紀、日本は飛鳥時代大化の改新が行われたころである。

 このころ世界では、預言者ムハンマドが神の啓示をうけた。イスラム教の始まりである。

 ヨーロッパでは、地中海を支配していたビザンツ帝国が急速に衰退。代わりに台頭してきたのがフランク王国などのゲルマン民族である。

イスラム教の成立

 7世紀最大の出来事は、イスラム教の成立である。イスラム教の拡大スピードはすさまじく、7世紀中に中東全域を席巻した。イスラム帝国の拡大は、6世紀の中東の2大帝国を衰退させた。トルコのビザンツ帝国とイランのササン朝ペルシアである。

 ササン朝ペルシアは、7世紀に滅亡。多くのペルシア人が東へ亡命した。唐の長安ペルシア人が多数生活し、日本の平城京(奈良)に渡ったものもいる。 

 10年 預言者ムハンマド、神の啓示を受ける。
 22年 預言者ムハンマド、メッカを追われメディナに移住(ヒジュラ
 30年 預言者ムハンマド、メッカを征服
 32年 預言者ムハンマド、亡くなる。正統カリフ時代に入る。
    正統カリフ時代に、ササン朝ペルシアが滅亡
    ビザンツ帝国も、シリア・エジプトを奪われる。
 61年 シリア系ウマイヤ朝成立
    スンナ派ウマイヤ朝支持)VS シーア派(反ウマイヤ朝)の内紛が起こる。
    これにより、イスラム帝国の拡大は一時休止する。

イスラム帝国拡大で
 ビザンツ帝国はピンチ

 ビザンツ帝国も、イスラム帝国の拡大により急速に衰退する。6世紀のビザンツ帝国は、ユスティアヌス帝の全盛期であった。地中海沿岸のゲルマン諸国を次々滅亡させ、地中海を再統一した。しかし、正統カリフ時代には、シリアやエジプトを失う。

 16年 西ゴート王国により、スペインから撤退
 26年 アヴァール人が首都コンスタンチノーブル包囲
 36年 イスラム軍(正統カリフ)に敗北。シリアを奪われる。
     この時シリア総督になったのがウマイヤ朝を開くウマイヤ家である。
 41年 イスラム軍(正統カリフ)により、穀倉地帯エジプトを失う
 74年 イスラム軍(ウマイヤ朝)、首都コンスタンチノーブル包囲

フランク王国(フランス)
王家メロヴィング家が衰退

 このころ、フランスを支配していたのは、フランク王国である。6世紀にはアルプス山脈以北(ドイツ・フランス)の全域を支配していた。

 フランク王国は、メロヴィング朝の時代である。しかし、分割相続で親族同士の対立が激化。フランク王家メロヴィング家は衰退していた。13年には、ロータル2世が内乱を鎮めたが、ロータル2世が亡くなるとまた対立は激化した。

 代わりに台頭したのが宮宰をつとめるカロリング家であった。宮宰は、フランク王国で最高位の役職で87年には宮宰ピピンが実権を握るようになる。

キリスト教とイタリア

 6世紀に西ローマ帝国が滅亡したイタリアの状況はどのようになっていたのだろうか。6世紀から7世紀にかけて様々な勢力によって分裂していた。

 北イタリアは、ビザンツ帝国から独立したランゴバルド王国。中央部は、東のラヴェンナ地方にビザンツ帝国の総督領が、西のローマにはローマ教皇領があった。それ以外も分裂していた。イタリアの南、北フリカのチュニジアは、7世紀末にイスラム勢力(ウマイヤ朝)に入った。

 フランク王国は8世紀にローマ教皇の要請に基づいて分裂状態のイタリアへ侵攻していく。

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イギリス史 未分類

7世紀のイギリス キリスト教の伝来

7世紀、日本は飛鳥時代聖徳太子の時代から大化の改新を経て天武・持統天皇の時代である。

 この頃、イギリスはアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。この時期にアングロサクソン人はキリスト教を信仰するようになった。

アングロ=サクソン七王国の戦乱期

 8世紀はアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。その中で8世紀最も力を持っていたのは、北部のマーシア国であった。
 アングロ=サクソン人は、5世紀にイングランドを征服。当時は国家が形成されていたなかったが、小国が乱立するようになる。6世紀に入ると7つの国へ絞られていった。この七王国をアングロ=サクソン七王国ヘプターキー)と呼ばれるようになる。
 さて、今回は、アングロ=サクソン七王国キリスト教が布教が始まる様子を見ていきます。
 

7世紀のヨーロッパ

 7世紀最大の出来事はイスラム教の成立である。それまで、中東はビザンツ帝国ササン朝ペルシアで分割されていた。6世紀、ビザンツ帝国はユスティアヌス帝の最盛期で、地中海の再統一を実現した。一方で、ササン朝ペルシアもホスロー1世の最盛期で、中央アジアのエフタルを滅ぼした時代である。しかし、7世紀にはいると、ササン朝ペルシアは滅亡。ビザンツ帝国も、穀倉地帯のシリア、エジプトや地中海の制海権イスラム教徒へ奪われた。

 ビザンツ皇帝レオン1世はこれに危機感を抱いた。そこで、「聖像禁止令」を出した。(ビザンツ皇帝はコンスタンチノーブル教会のトップを兼任していた。)「聖像禁止令」とは、キリスト関連の彫刻や絵画を作ることを禁止した法律である。これに独自路線を歩み始めたローマ教皇は反発した。なぜなら、当時のローマ教会の最大のミッションはゲルマン人への布教であったからである。ラテン語を読めないゲルマン人への布教には聖像は必要不可欠であった。この頃から、コンスタンチノーブル教会(東方正教会)とローマ教会(ローマ=カトリック)の対立は明確化してきた。

キリスト教の布教伝来

カンタベリー大聖堂

 6世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に進めた。イングランドへ修道士が派遣された。彼らはイギリス南東部のカンタベリーに拠点を置いた。現在、ここにはカンタベリー大聖堂がある。修道士たちは南部のジュート人やサクソン人から布教を開始した。

 ちなみに、新興宗教の流行は戦乱期によく起こる。イングランドキリスト教伝来もアングロ=サクソン七王国の戦乱期に発生している。日本のカトリック伝来も16世紀の戦国時代に広まったし、中国の仏教伝来も、4世紀の五胡十六国時代に広まった。
 

アイルランドイングランドの宗教対立

 イギリスの先住民(アイルランドウェールズスコットランド)はすでにキリスト教を信仰していた。特にアイルランドには修道院を中心として教会組織が確立していた。そのため、ローマ教皇をトップとしたイングランドの教会組織としばしば衝突した。

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8世紀のビザンツ帝国 アッバース革命

8世紀、日本は奈良時代。ビザンツ帝国は7世紀から続くイスラム勢力の侵攻に悩まされた。8世紀半ばのアッバース革命でイスラムの侵攻が少し止まった。しかし、ランゴバルド王国やブルガリア王国の侵攻に悩まされることになる。

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14世紀のイギリス(プランタジネット朝)百年戦争と黒死病

 14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱の時代である。
 イングランドは、フランスとの百年戦争への突入した。この時代ローマ教皇の衰退が見られた時期である。教皇のバビロン捕囚ではじまり、教会大分裂が起きたのもこの時代である。14世紀はイングランドプランタジネット朝の時代である。しかし、14世紀末にプランタジネット朝が幕を閉じ、ランカスター朝が成立した。

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16世紀後半の世界 戦国時代の裏側で

おはようございます!sekaishiotakuです。本日で、「16世紀後半 戦国時代の国際情勢」は、おしまいです。今後もこちらのブログでは、同じ時代の国際比較のブログをやっていきたいと思います。このシリーズのまとめページを作りましたので、よかったら、下のリンクから飛んでみてください。

次回は、幕末編でペリー来航の1850年代をやっていこうと思いましたが、時代背景を考慮して世界大恐慌が発生した1830年代をアップしよう思います。

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16世紀後半の日本 織田信長の時代

16世紀後半の国際情勢

明王朝と北虜南倭

16世紀後半、明王朝は中国全体をコントロールすることができなくなっていた。北方からは騎馬民族がしばしば侵入していた。また、中国南部では密貿易が横行。商人は武装化し、明王朝の役人と戦える状態になっていた。この密貿易ネットワークは、九州・沖縄なども含まれていた。大航海時代で進出したスペインなどのもこの見る貿易網に参入した。

太陽の沈まぬ国 スペイン

 この時代ヨーロッパの大国は、スペインであった。スペインはフィリピンに進出。東アジア交易網に参加した。当時のスペイン国王はフィリペ2世である。
 彼らは、アメリカのポトシ銀山の銀を使って陶器などの中国製品を大量に買った。これにより、中国は大量の銀を獲得した。
 また、この時期にスペインは、ポルトガルを併合。スペインは、新大陸とアジアに植民地をもつ太陽の沈まぬ国となった。

織田信長と宗教改革

 織田信長は、尾張(今の名古屋)の戦国大名であった。16世紀後半に京都へ進出。応仁の乱で焼け野原になっていた京都を復興させた。
 織田信長は、京都へ進出すると旧勢力の排除を行った。室町幕府を滅ぼし、比叡山の焼き討ちを実施した。また、石山本願寺を屈服させた。しかし、彼は宗教自体には寛容であった。ただ、石山本願寺や比叡山は反信長勢力と結びつきがあったため世板厚の対象となった。
 信長の経済政策は、楽市楽座である。当時、商人は免許制であった。しかし、信長はこの免許制をやめ自由に貿易をさせた。これにより京都を中心とした関西圏は大いに栄えた。これにより、鉄砲などの最新軍備をそろえることができ、常備軍を持つことも可能になった。
 外交政策では、キリスト教(カトリック)を保護し、スペイン・ポルトガルと積極的に交流した。

豊臣秀吉と朝鮮出兵

 しかし、織田信長の時代は長くは続かなかった。本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉がこれを引きついだ。豊臣秀吉は、皇族や公家との関係を強化し、関白となった。関白の地位を巧みに使い、天下統一を果たした。
 豊臣秀吉は、天下統一を果たすと兵農分離政策を行った。刀狩りや太閤検地を行ったのである。大名の力を示す〇万石という言葉はこの当時に一般化した。
 豊臣秀吉は、外交政策を大きく転換させた。彼が九州を訪れた際、かなりの惨状を目の当たりにした。神社仏閣は破壊され、奴隷売買が横行していた。そのため、豊臣秀吉は、キリスト教を禁止した。しかし、ポルトガルとの交易は公認していた。
 豊臣秀吉は、天下統一を果たすと、衰退している明王朝への侵攻を始めた。朝鮮出兵である。しかし、朝鮮出兵に参加した大名の士気が高くなく、豊臣秀吉が亡くなるとすぐに撤兵した。