フランス
ベトナムの保護国化
80年代、フランスは清仏戦争に勝利。ベトナム(阮朝)を保護国にした。
- 83年 第一次フエ条約
- 84年 清仏戦争で清王朝に勝利
第2次フエ条約 - 87年 フランス領インドシナ連邦成立
登場人物
フランス(第三共和政)
70年、ナポレオン3世がプロイセン=フランス戦争に敗北。第二帝政が崩壊し、第三共和政の時代に入っていた。
国際的には、ビスマルク外交の後半。フランスは国際的に孤立していた。
中国(清王朝末期)
中国は、清王朝の時代である。アヘン戦争に敗北後、清王朝は衰退の一途をたどった。
- 1840年代 アヘン戦争
- 1850年代 アロー戦争/太平天国の乱
- 1860年代 太平天国の乱の鎮圧
- 1870年代
- 1880年代 清仏戦争
- 1890年代 日清戦争→中国分割
- 1900年代 義和団の乱→日露戦争
- 1910年代 辛亥革命→第一次世界大戦
ベトナム(阮朝)
ベトナムは、阮朝の時代。阮朝は1802年に西山党の乱を鎮圧して成立した王朝である。都は、中部のフエにおいた。宗主国を清王朝とした。
フランス領インドシナの成立
87年10月、清仏戦争に勝利したフランスは、フランス領インドシナを成立。総督をおいた。
南ベトナムを直轄領とし、北ベトナム、中部ベトナム(旧阮朝)、カンボジアを保護国にした。
90年代入ると、タイ(シャム)王国の保護国であったラオスを保護国にする。
清仏戦争
83年8月、ベトナム(阮朝)とフランスの間でフエ条約を締結。フランスは、阮朝とベトナムを保護国にするための交渉に入った。
84年6月、フエ条約の具体体的内容が明確になった。第2次フエ条約である。
これに待ったをかけたのが、清王朝である。清王朝は、ベトナム(阮朝)の宗主国であった。これにより、84年6月、清仏戦争が勃発した。
清王朝軍は、黒旗軍と連携し優位に戦争を進めた。しかし、84年12月、保護国の朝鮮で親日派のクーデターが発生。清王朝は劣勢になる。
85年6月、清王朝は敗北。天津条約を締結。清王朝は、フランスのベトナム保護国化を認めた。
フエ条約
フランスは、70年代にベトナム(阮朝)から南ベトナムを獲得した。
フランスは、中国への交易ルート確保のために北部へ進出していった。84年6月、ベトナム(阮朝)とフエ条約を締結した。
黒旗軍の反乱
黒旗軍は、劉永福を中心とした漢民族の軍隊である。黒旗軍は、太平天国軍の残党である。64年に太平天国は、欧米の常勝軍によって敗北。劉永福らは、黒旗軍としてベトナム北部へ侵入。
当時、ベトナムは阮朝の時代。フランスとの戦争したにあった。黒旗軍にとって、フランスは太平天国を崩壊させた因縁がある。黒旗軍は阮朝の援軍として、フランス軍と戦った。
イギリス
ミャンマー併合
ミャンマーは、ミャンマー最期の王朝であるコンバウン朝の時代である。18世紀半ばに成立。18世紀後半にタイのアユタヤ麻を滅亡。乾隆帝時代の清王朝軍を撃退した。
ビルマの西のインドでは、70年代にイギリス領インドが成立。インドは、イギリスの直轄領になった。
コンバウン朝(ミャンマー)は、52年の第2次イギリス=ビルマ戦争に敗北。沿岸部をイギリス(インド)に奪われ、内陸国になっていた。
85年、コンバウン朝は、清仏戦争に勝利したフランスと通商条約を締結。イギリスはこれに反発。第3次イギリス=ビルマン層が勃発。
翌86年、コンバウン朝が滅亡。ミャンマーはイギリス領インド帝国に併合された。
マレー半島への進出
この頃、マレー半島は小国が乱立していた。北のタイ(シャム)王国につく国とイギリス(イギリス量インド)につく国別れ始めていた。
ブルネイ併合
81年、イギリスはボルネオ島北部に商館を設置。88年に、ボルネオ島北部をイギリスの保護国にした。
同じ頃、ジャワ島に新進出しているオランダもボルネオ島南部へ進出していった。
オーストラリアの白豪主義
この時代のオーストラリアはイギリス領であった。50年代のゴールドラッシュをきっかけに多くの移民が流入した。80年代に入るとアジア系移民の流入も始まった。オーストラリアは移民の制限を始めた。これが白豪主義である。