6世紀の中国 魏晋南北朝 戦乱の北魏と六朝文化

 6世紀の日本は、飛鳥時代。仏教が伝わった時代である。
 このころの中国は南北朝時代がつづいていた。北朝北魏は、軍人と文官が対立。軍人がクーデターを起こす。再び分裂し戦乱の世に戻る。一方、南朝は引き続き短命王朝が続いていた。一方で平和な時代が続き六朝文化が花開いた。589年北朝の隋が南北朝を統一。
 このころ北方騎馬民族の世界では、トルコ系騎馬民族突厥が登場する。

戦乱の北魏(北朝)

北朝は、拓跋氏の北魏が統一していた。孝文帝が退位すると、523年北方の警備隊の軍人(主に北方騎馬民族)が、漢化政策を進める洛陽の文官(主に漢人)に反乱を起こす。これにより、中央政府のコントロールがきかなくなり、地方軍人が独自に政治を進めた。(軍閥化)。534年ごろには、軍閥東魏西魏の2つのグループにまとまり、それぞれ皇帝を擁立するようになった。6世紀半ばには、禅譲により王朝交代が起こり。
577年周王朝華北を統一。都を長安とした。581年隋王朝が成立。都はそのまま長安を引き継いだ。583年、東突厥と結びつく。

トルコ系騎馬民族 突厥 が登場。(北方騎馬民族)

6世紀中ごろ、西部中央アジアにトルコ系騎馬民族突厥が登場。552年突厥はモンゴル系の柔然を滅ぼし独立。556年、ササン朝ペルシアのホスロー1世と結びエフタルを滅ぼす。583年突厥は、東西に分裂。東突厥は、7世紀に唐王朝建国を支援。唐王朝の統治下に入る。

南朝六朝の状況

南朝は、502年梁王朝、557年陳王朝が建国。南朝は、北朝とは違い。皇帝権力は弱く。貴族階級が大規模農場経営を行って、経済的・文化的に中心を担った。文化では、老荘思想が流行。仏教もこの時代に浸透した。

隋王朝が南北を統一

589年、北朝の隋が、南朝六朝を倒し、南北朝が再統一された。隋王朝の時代は、聖徳太子の活躍した時代に相当する。隋の政策は、2世紀から始まる魏晋南北朝の戦乱期の政策を取りまとめたものとなった。都は、周王朝と同じ漢の都長安とした。北魏の時代から続いていた。

  1. 均田制 土地の私有を認めず、国家が農地を貸し出す仕組み
  2. 租調庸 納税の義務
  3. 府兵制 兵役の義務 

しかし、曹操の時代の門閥貴族から権力を奪い、皇帝の権力を高めようとした。そのため、均田の配布基準では、小作人や牛馬の数は含めなかった。また、役人の採用試験では、推薦型の九品中正を改め、学科試験である科挙を導入した。

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