11世紀の中国 宋王朝 澶淵の盟と王安石の改革

前回の復習 12世紀の中国

 19世紀は、清王朝の時代である。18世紀末に乾隆帝が崩御。嘉慶帝が即位。ここから、清王朝の衰退の歴史が始まる。その始まりが、四川省の白蓮教徒の乱である。

11世紀の国際情勢

 日本は、平安時代中期。11世紀初頭に、道長・頼通の藤原摂関家の全盛期。清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』が成立した。11世紀後半に、白河天皇が院政が始まる。

 ヨーロッパでは、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間で叙任権闘争が展開。皇帝が教皇に謝罪するカノッサの屈辱が起こる。そして、11世紀末に十字軍遠征が始まる。

宋王朝

宋王朝とは

 宋王朝は、10世紀半ばに成立。唐王朝の滅亡で始まった五代十国の戦乱期を終え、中華を再統一した。12世紀前半、女真人の金王朝によって華北を奪われ南宋になる。

 都は、開封(かいほう)。開封は、北京と南にある商業都市である。北京と長江を結ぶ大運河と黄河の交点ある商業都市である。

澶淵の盟

 唐王朝は、辺境地域の軍隊に大きな自治権を与えた(節度使)。この節度使によって、唐王朝は滅亡し、五代十国の戦乱期に入った。

 その反省から、宋王朝は軍隊の中央集権化を図った。その結果、国境付近の軍隊は弱体化した。そのため、北方騎馬民族の侵攻に苦しんだ。

 そのため、周辺国家と同盟関係を結んでいった。

 04年、モンゴル系契丹人の遼王朝と澶淵の盟(せんえんのめい)を結んだ。兄である宋王朝が弟である遼王朝に対して銀と絹を毎年送ることで不可侵条約を締結した。

 44年、チベット系の西夏と慶暦の和約を結んだ。宋王朝が臣下である西夏王朝に銀と絹のほかに、茶を毎年おくることで不可侵条約を締結した。

王安石の改革

背景

 11世紀なかばになると、宋王朝の財政はひっ迫した。その要因は、2つある。1つは人件費である。宋王朝は中央集権的な王朝である。そのため、官僚と禁軍(皇帝直属の軍隊)の存在により、莫大な人件費が発生した。2つ目は、貢物である。澶淵の盟で毎年送る銀も財政支出を拡大させた。

 67年に神宗皇帝が即位。70年に若くして科挙に合格した王安石とともに改革をすすめた。その目的は、税収UPと低コストによる軍事力強化にあった。

政策

 1つ目の政策は、農業政策である。中小の農民への支援である。

 1つ目は、青苗法である。これは、中小農民への低金利融資である。民間の高金利の融資をこれで返済した。

 2つ目は、募役法である。これは、金銭で労役を免除する仕組みである。政府は、募役法で集めた金銭で失業者を雇い不足した労役を補充した。

 次の政策は、商業政策である。これは、中小の商人の育成である。物価の安定のための政策や中小の商人向けの低金利融資を実施した。

 軍事政策では、徴兵制を復活。農民に対して農閑期に軍事訓練を実施した。また、馬を貸し出し、戦時は軍馬として利用。平時は、農耕馬として利用した。

旧法派 vs 新法派

 王安石の政策は、納税できない農民や商人の所得を引き上げて納税できるようにして税収を増やす政策である。

 これは、貧農への貸付で生活をしていた新興地主層や商業利益を独占していた大商人にとっては不利な政策である。当時の上級役人の大部分は、新興地主層や大商人で構成されていた。彼らは王安石の政策に反対した。この派閥を旧党派という。

 一方で、王安石の政策を指示した少数派を新党派という。

北方騎馬民族

遼王朝と澶淵の盟

 ここでは、宋王朝の時代に存在した2つの北方騎馬民族の歴史を見ていきます。

 1つ目は、遼王朝である。遼王朝はモンゴル系契丹人の国である。10世紀初頭に耶律阿保機が建国。その後、中国東北部の渤海を征服した。

 10世紀前半に北京周辺の燕雲十六州を獲得。宋王朝が成立すると、燕雲十六州をめぐり、何度も戦乱が起きた。同じ頃、朝鮮半島の高麗王朝への侵攻も行われた。

 04年、宋王朝の都である開封を遼王朝軍が包囲。これを受けて、澶淵の盟を結んだ。燕雲十六州の一部を宋王朝へ割譲し、国境を確定。毎年銀10万両、絹20万匹を宋王朝から頂戴することが決定された。兄弟の関係をされた。

西夏王朝と慶歴の和約

 西夏王朝は、チベットのツングース系の王朝で、黄河上流部に拠点をおいた。シルクロードの入口を抑えて繁栄した。西夏文字を作り、利用した。

 38年、遼王朝から独立。

 44年、宋王朝と慶暦の和約を締結。西夏王朝は、宋王朝の臣下になり、国境を確定。宋王朝から、銀5万両、絹13万匹の他に、茶2万斤を受け取ることになった。

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