11世紀の中国 宋王朝 新興地主層による宋王朝

日本の平安時代後期で、藤原一族の摂関政治が終わりを迎えつつあった。
 この時代の中国は宋王朝の時代だあった。10世紀の五代十国の戦乱で、唐王朝期の門閥貴族が没落。新興地主層が台頭してきた。また、門閥貴族の没落は、皇帝権力を高めた。一方で、外交面では協調外交路線で、北方民族と不戦条約を結ぶ見返りに経済援助を行った。
 11世紀の半ばになると、宋王朝の財政はひっ迫。王安石が、中小の農民や商人の育成政策をとり景気回復によって財政を改善しようとする。しかし、新興地主層出身の上級官僚が反発。改革派と保守派の対立で、宋王朝は衰退期に入る。

 11世紀の国際情勢

 日本では、平安時代の後期で、藤原全盛期から白河上皇院政の時代。ヨーロッパでは、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)とローマ教皇が、叙任権(教会の人事権)で争っていた。イスラム世界では、トルコ系セルジューク朝が台頭。隣国のビザンツ帝国を圧迫し始めていた。

貴族の時代から庶民の時代へ

 唐王朝末期から五代十国の戦乱によって門閥貴族(魏の九品中正で台頭した地主層)は没落。唐王朝律令制下の均田農民の格差が拡大。地主層と小作人層に分かれる。この新興地主層が、門閥貴族の代わりに政治と文化を担っていく。この新興地主層は形勢戸(けいせいこ)や士大夫(したいふ)とよばれる。

 新興地主層は、農作業を小作人に任せていたため、もっぽら科挙(役人採用試験)の勉強に充てていた。当時の科挙は、殿試の導入などにより身分の差による不公平はなくなった。そのため、この新興地主層が宋王朝の上級官僚に選ばれるようになった。また、上級官僚は雑徭(地方での無償労働義務)がなかったため、格差はさらに拡大した。

 科挙の勉強によって、文化的な素養も身についた。彼らは士大夫(したいふ)と呼ばれた。これは、現代日本に当てはめると東大出のエリートのようなものである。所得の高い家庭が子どもを塾に通わせ東大に合格させる。

皇帝独裁の時代

 宋王朝は、皇帝の権力はかなり大きくなった。それは2つの理由からである。1つ目は、門閥貴族や節度使などの唐王朝期に政治力を持っていたものが没落していった。2つ目は、禁軍や殿試によって、上級軍人や上級官僚と皇帝の結びつきが高かった点が挙げられる。 

 宋王朝の当初の政治課題は節度使(地方行政官兼ねる軍人)の政治力を弱めることにあった。そのため、科挙官僚を重視した。
また、皇帝直属の常備軍を設置し、節度使と戦える自前の軍事力を確保した。この組織を禁軍(きんぐん)という。

 門閥貴族が仕切っていた門下省(皇帝勅書の審議機関<今の日本政治に当てはめると参議院>)を廃止、皇帝直属の中書省(勅書の作成機関<今の日本政治に当てはめると衆議院>)に吸収した。


貨幣経済の時代

  宋の都、開封では、それ以前の長安、洛陽とちがい商人が作った商業都市である。商業都市もだいぶ大きくなり、商人組合の行(こう)清王朝の公行や現在の銀行の語源>や手工業組合の作(さく)が生まれた。

 貨幣経済も普及した。宋銭(銅銭)が大量発行。日本を含む周辺諸国の統一通貨となった。高額の決済には、銀や紙幣(交子)も使われるようになった。この紙幣は世界最古のものである。
 貿易も盛んであった。海上貿易ではムスリム商人(イスラム教徒の商人)が活躍。中東のアッバース朝インドネシアのシュリーヴィジャヤ王国との交易が盛んになった。一方で北方騎馬民族との交易も盛んであった。ソクド商人(イラン系イスラム教の商人)が活躍。絹やお茶を輸出して、馬や羊を輸入していた。


三国時代(北方民族の台頭)

 この時代、北方では、モンゴルの遼、チベット西夏中国東北部の女真族の金王朝が台頭してきた。この後の中国は、モンゴル民族、中国東北部の民族(女真族)、漢民族が交互に王朝を築いていく。当時の北方民族は、中国の文化を取り入れていたが、4世紀の五胡十六国(隋唐王朝期の前の戦乱期)のように漢民族に同化することはなく、独自の文化圏を形成していた。

 モンゴルのは、中国東北部女真族や北京周辺(燕雲十六州)を支配していた。チベット系の西夏は、10世紀は遼の支配下にあったが、38年に独立。シルクロードを抑え東西交易に大きな富を得た。

 宋王朝の対外的な軍事力はあまり高くない。そのため、04年には、遼(壇淵の盟)と、48年には、38年に建国したばかりの西夏(慶歴の和約)と、それぞれ不戦条約を締結した。侵攻をしない見返りに、遼には、銀と絹を、西夏には、銀と絹のほかに茶を、毎年贈った。

新しい文化の台頭

革新的で中国らしい文化

 五代十国の戦乱で国際的な交流が停滞。そのため、ペルシアやヨーロッパなどの影響を受けない独特な文化が形成された。
 この時代、朱子学が完成。儒学のスタンダードになる。江戸時代の日本にも大きな影響を与えた。絵画では、宮廷画家が描く院体画から、趣味で描く文人が中心になる。


士大夫(新興地主層)が中心の大衆文化

 この時代、木版印刷がはじまり、門閥貴族に独占されていた文化も、新興地主層(士大夫)や庶民にも広まった。また、新興地主層は、科挙の勉強を通じて漢詩儒学の教養も備わった。
 仏教では、士大夫の間では、老荘思想を取り入れた禅宗がはやった。一方で庶民の間では末法思想の影響をうけた浄土宗がはやった。14世紀の紅巾の乱や18世紀の白蓮教徒の乱をおこす白蓮教は、浄土宗の一派である。宋代に成立した新仏教は、13世紀に日本に伝わり鎌倉新仏教と呼ばれる。道教では、華北では全真教が、江南では、正一教が広まった。


宋の三大発明

羅針盤、火薬、活版印刷が発明される。イスラム世界を経由して14世紀から始まるルネサンスの三大発明につながる。

王安石の改革

 11世紀の半ばになると、異民族へのプレゼントや官僚や常備軍の給料で財政はひっ迫した。宋王朝期は、官僚である士大夫は無税であった。宰相(今の日本の総理大臣みたいなもの)王安石は、一般の農民や商人が活躍できるような経済政策(新法)を採ろうとした。これにたいして士大夫など富裕層出身の官僚(旧法党)が反発。大きく対立した。

 この対立により、宋王朝の衰退が始まった。
 このころ、科挙不合格者が北方騎馬民族に採用されることが多くなる。これを防止するため、殿試では不合格者を出さなくなった。