1980年代前半の中国 鄧小平最高指導者と市場経済システムの導入

政治)鄧小平最高指導者

政権を取るまで

 鄧小平氏は、04年に四川省に生まれる。その後、フランスに留学。20年、フランスで中国共産党に入党。27年に中国に帰国。毛沢東の下で国民党や日本と戦う。

 49年、中華人民共和国建国。国務院副総理(行政のNo2)や党総書記(共産党のトップ)につく。

 62年、経済政策の失敗で毛沢東国家主席が失脚すると、劉少奇政権で実質No2の地位に就く。

 66年、文化大革命が起こると、劉少奇国家主席とともに失脚。その後、復権と失脚を繰り返した。77年7月、鄧小平政権が樹立した。

鄧小平氏の体制

 鄧小平政権のNo2は、胡耀邦総書記である。共産党の業務を指揮した。86年の学生デモで政治の民主化をすすめたため、失脚した。

 No3は、趙紫陽首相である。政務を取り仕切った。胡耀邦氏が失脚するとNo2になる。

市場経済の導入 改革開放政策

改革開放政策とは

四つの現代化

 四つの現代化のベースは、周恩来首相が提唱した「4つの近代化」がある。農業、工業、国防と科学技術の4部門を近代化を進める政策である。しかし、文化大革命で中断する。

 鄧小平氏は、78年12月にこれを復活させたのが「四つの現代化」である。

生産責任制

 農業は、国営企業である人民公社で一括管理した。

 鄧小平氏は、82年に人民公社を廃止。農家生産請負精度を導入。一定の農産物を収めれば、それ以上の生産物は自由に売買できる。仕組みを作った。これにより、農業生産性は向上した。

 また、中国各地に郷鎮企業(ごうちんきぎょう)とよばれる私企業が成立した。

外資の流入

 鄧小平氏は、積極的に外資を受け入れた。香港近郊の深圳(しんせん)などの沿岸部に経済特区を設置。規制緩和で外国企業が参入しやすい政策を取るようになった。

天安門事件へ

 市場経済の導入により、中国経済は急成長した。一方で、格差や政治腐敗が問題になった。これが89年の天安門事件につながる。

外交 米中冷戦

中越戦争

 アジアで最初の共産党は、中国ではなくベトナムであった。そのため、ベトナムは、親ソの共産党政権である。

 56年のスターリン批判で中ソ対立が始まると、アジアの社会主義国や共産党勢力は、中国とソ連の選択を迫られた。このとき、ベトナム共産党はソ連を選択し、カンボジア共産党のポル=ポト政権は、中国を選択した。

 79年1月、共産党政権のベトナムは、カンボジアへ侵攻。ポル=ポト政権を倒し、親ベトナム政権を樹立した。

 鄧小平氏は、アメリカなどと秘密外交を展開し、ベトナム侵攻を批判しないことを確保(暗黙の同意)した。ただし、この同意は短期のものとされた。

 79年2月、中国はベトナムへ侵攻した。これが忠節戦争である。短期決戦の条件とベトナムの強い抵抗で国境付近を破壊する程度で集結した。

モスクワオリンピックをボイコット

 79年12月、ソ連がアフガニスタンへ侵攻。新冷戦が勃発した。アメリカは、これの対抗措置として、翌80年のモスクワオリンピックのボイコットを呼びかけた。中ソ対立中の中国は、これに賛同した。

イラクを支援

 78年にイランの親米王朝パフレヴィー朝が倒れた。80年、イラン=イラク戦争が勃発。アメリカ主導で国際連合安保理を主導で停戦案を提示。イラクは合意したが、反米のイランは合意しなかった。

 アメリカ中心の西側諸国だけでなく、アフガン侵攻中のソ連もイラクを支援した。これらの支援の中心は武器提供であった。多くの支援をしたのが、フランス、ソ連と中国であった。

香港返還交渉

 清王朝は、1842年のアヘン戦争で香港島をイギリスの割譲。1860年のアロー戦争で九竜半島南部を割譲。この2つの地域は清王朝への返還義務はない。

 1896年、清王朝は日本に敗北。これにより、中国分割が始まった。このときに使われた手法が99年租借である。イギリスは、1898年に、九竜半島北部を租借した。この地域は、1997年に清王朝に返還することになった。

 イギリス以外の租借した国々はどうなったのか。ロシアは、日露戦争に敗北して撤退。ドイツは、第一次世界大戦に敗北して撤退。第2次世界大戦が終わると、フランスは返還したが、イギリスは返還しなかった。

 84年、イギリスのサッチャー首相と中国の鄧小平氏が97年に香港返還に合意し、共同声明を発表した。九竜半島北部に加え、返還義務のない九竜半島南部と香港島も返還されることになった。

 ただ、香港の人々の人権をイギリス水準で守るため、変換後50年間(2047年まで)、政治体制と経済体制を変更しないこととした。これが「一国二制度」である。

 これを受けて、ポルトガルも、99年にマカオを返還することを決めた。