紀元前7世紀以前の中国 神話の時代から周王朝の衰退まで

紀元前7世紀 春秋五覇の時代

 異民族の侵入で周王朝が衰退し、諸侯の発言力が強くなった。有力な諸侯は覇者<ハシャ>と呼ばれた。この時代からの戦乱期を春秋・戦国時代という。

 周王朝の衰退の理由は、周王朝と諸侯の関係性の希薄化にある。建国当時の諸侯は周王室の娘婿と兄弟たちによってなっていた。しかし、世襲が進んでいくと親戚関係は徐々に薄くなっていた。

 それでも周王朝の権威はまだ保ち続けた。その象徴が周王朝の賜りものに書かれていた漢字であった。

 当時の覇者は、春秋五覇と呼ばれる。5人の覇者が登場するが、時代によって5人の国や王がかわる。呉越同舟や臥薪嘗胆の語源となった呉と越は、長江の下流(東部、東シナ海沿岸)にあった国である。余談だが、2世紀に孫権は、この地に呉王朝をたてる。

紀元前8世紀 周王朝の東へ遷都

 西方(中央アジア)から異民族が侵入。紀元前770年西安から東に進んだ黄河流域の洛陽(当時は洛邑<らくゆう>と呼ばれていた。)に都を移した。この時代から8世紀(唐王朝末期)まで都は、西安と洛陽のどちらかであり続けた。

紀元前11世紀 周王朝の成立

 黄河流域のいまの西安(当時は鎬京<コウケイ>とよばれていた)を都とした周王朝が成立した。周王朝が有力な家来を婿入りさせ親戚関係にしたうえで、地方の統治を世襲の形で任せた。地方の統治を任されたものを諸侯と呼んでいた。この地方統治体制を封建制という。

 周王朝は、有力な邑(むら)の一つで、渭水盆地(現在の西安周辺)に拠点に置いていた。渭水盆地には函谷関という関所があったため、関中(かんちゅう)と呼ばれていた。函谷関は中国と中央アジア(のちの西域諸国)を分ける重要な関所であった。関中(かんちゅう)はのちに漢と呼ばれるようになり、紀元2世紀に成立する漢王朝の由来となった。

紀元前16世紀 殷王朝

 黄河流域に殷王朝が成立した。黄河下流域の河南省で殷墟(殷王朝の跡)が発見されている。亀の甲羅や動物の骨を焼く占いで政治を行った。(神権政治)血縁による集団(氏族集団)でまとまっていた。彼らは亀の甲羅などに文字を記していた。これを甲骨文字という。硬いものに文字を書いていたため、直線が多い。これがのちの漢字のルーツになる。

中国の建国神話

 漢代の歴史書史記』によると、三皇五帝の時代で中国の歴史が始まったとされる。三皇五帝とは、中国の建国神話で、3人の神と5人の天子で中国が始まったとされる。その後、最初の王朝、夏王朝が成立されたとされる。夏王朝は、三皇五帝の最後の天子から禅譲されたといわれている。しかし、歴史的にこの王朝は証明されていない。

中国文明

 紀元前3000年紀、長江流域と黄河流域の交流が始まる。黒陶(こくとう)という土器に代表される竜山文化はこの時代の文化である。この頃になると村落同士の争いがはじまる。

 紀元前5000年紀、気候の温暖化にともない、長江流域では人工的な水田がある村落が登場する。一方で黄河流域では、彩陶(さいとう)に代表される仰韶文化の時代を迎える。

 紀元前6000年頃、農耕が始まり人々は定住するようになる。北の黄河流域ではアワなどを、南の長江流域では、コメ(稲)などが生産された。