12世紀のエジプト サラディンと十字軍

13世紀のエジプト

 13世紀、アイユーブ朝が倒れて、15世紀まで続くマムルーク朝の時代に入った。マムルーク朝は、十字軍やモンゴル帝国を撃退。アッバース朝に代わるイスラム教の中心的存在となった。

 今回は、12世紀の様子を見ていきます。12世紀の世界は、日本では武家政権が成立。中国では、満州族(女真族)の金王朝が成立。中国は再び南北に分断された。ヨーロッパではキリスト教が絶頂期。十字軍遠征が繰り返された。

第3回十字軍

87年、アイユーブ朝のサラディンは、イェルサレムを再び征服。

 時のローマ教皇は、インノケンティウス3世である。ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)フリードリヒ1世、フランス国王フィリップ2世、イングランド国王リチャード1世を集めて第3回十字軍を編成した。

 フリードリヒ1世は、中東に入る前に死亡。神聖ローマ皇帝軍は撤兵した。そして、フランス国王フィリップ2世も早々に撤退。実質的には、イングランド国王リチャード1世とアイユーブ朝のサラディンとの戦争になった。

 この戦いは、サラディンが勝利した。イェルサレムはアイユーブ朝の領土となったが、サラディンは巡礼者の保護は認めた。

アイユーブ朝の成立

シリアがエジプトを征服

 12世紀半ば、シリアにはセルジューク朝の一派であるザンギー朝が、エジプトにはシーア派の過激派ファーティマ朝が存在した。

 12世紀半ば、ザンギー朝がエジプトへ侵攻。サラディンも従軍した。ザンギー朝はエジプトを制圧した。

サラディンをカリフに指名

 エジプトの宰相は、当初、ザンギー朝の総司令官が務めた。しかし、就任直後に急死。ファーティマ朝のカリフは、若き武将サラディンをスルタン(宰相)に指名した。

アイユーブ朝の成立

 ファーティマ朝のカリフが亡くなると、サラディンはファーティマ朝のカリフを否定。アイユーブ朝を建国した。

 サラディンは、スンニ派のため、カリフはアッバース朝のカリフとし、自らはスルタン(宰相)の地位にとどまった。

第2回十字軍

12世紀初頭のシリア

 11世紀末の第1回十字軍で、シリア(東地中海)には、キリスト教国のイェルサレム王国が成立した。

 一方で、イスラム教では、11世紀に全盛期を迎えたトルコ系騎馬軍団国家のセルジューク朝は分裂状態にあった。

ザンギー朝の成立

 27年、セルジューク朝の一派であるザンギー朝がイラク北部に成立した。44年には、シリアへ侵攻。十字軍国家の一つを征服した。

第2回十字軍

 47年、このザンギー朝に向かって、第2回十字軍が編成された。その中心人物はフランスのルイ7世である。シリアのザンギー朝はこれを撃退した。

サラディンとは?

 最後に、サラディンの生い立ちを見ていきましょう。サラディンは、イラク北部のクルド人の家系アイユーブ家に生まれた。イスラム神学を修め、そのイラク北部にザンギー朝が成立すると、ザンギー朝の仕えた。