15世紀のエジプト マムルーク朝と国際貿易港カイロ

16世紀前半のエジプト

 16世紀は、近代の始まりの世紀である。エジプトも大きな転換期を迎えていた。マムルーク朝が滅亡。オスマン帝国の支配下に入った。

 今回から中世のエジプトを見ていくことになります。

中世のエジプト

 私が考える中世は、7世紀のイスラム教の成立から15世紀の大航海時代までとしている。中世のエジプトは主に3つの時代に分けられる。

  • 7世紀~ イスラム王朝の時代
  • 9世紀~ エジプト王朝の時代
  • 11世紀~ ファーティマ朝の時代

 ファーティマ朝は、エジプトのカイロに都を置いた王朝である。しかし、それまでのエジプトの王朝と異なり、イスラム教の中心的な役割を果たしている。今回はファーティマ朝の特徴を見ていきます。

ポルトガルとアジア貿易

国際貿易港 カイロ

 マムルーク朝は、イスラム圏で経済的に最も発展していた。その経済を支えたのが国際貿易港のカイロであった。カイロには、カーリミー商人がアジア各地で仕入れた商品があつまり、それをヨーロッパ方面に販売した。

カーリミー商人

 カーリミー商人とは、カイロを拠点としたムスリム商人である。カーリミー商人はアジア・アフリカ各地の商人を取り扱った。その中で最も人気があったのが東南アジア産の香辛料であった。

 エジプトでサトウキビ栽培も行われていた。エジプト産砂糖も重要な取扱商品であった。

東方貿易

 カーリミー商人の主要な取引相手は北イタリアの商人たちであった。この地域は、神聖ローマ帝国(ドイツ)と教皇領(中部イタリア)に挟まれた地域で多くの都市共和国が存在した。

 主要な都市は主に3つで、最も力を伸ばしていたのはロンバルディア同盟のヴェネツィアである。さらにメディチ家のフィレンチェ、そしてヴェネツィアのライバルのジェノヴァがある。

 カイロで仕入れた商品は、ヨーロッパでは高値で取引された。そのため、上流階級の人との取引が多くなった。

ポルトガルの台頭

 しかし、16世紀に入るとカイロの繁栄は終わりを迎える。ポルトガルの台頭である。

 ポルトガルは、15世紀に入るとアフリカ西海岸の探検を始める。これを指揮したのが航海王ことエンリケ王子である。15世紀半ばに、アフリカ最西端のヴェルデ岬を発見。15世紀末にようやくアフリカ最南端の喜望峰を発見した。アフリカ東海岸は出に多くのムスリム商人が訪れていた。そのため、喜望峰発見の4年後にはインド航路が開拓された。

 16世紀に入るとディオ沖の海戦でマムルーク朝に勝利。ポルトガルはインド航路をエジプトから奪った。

イスラム教の守護者として

カリフ

 マムルーク朝は、交易で経済力を持った大国であった。しかし、マムルーク朝の権威はそれだけではなかった。

 その一つが、カリフの存在である。カリフとは、ムハンマドの後継者でイスラム教の最高指導者である。7世紀に正統カリフ時代が終結すると、ウマイヤ朝、アッバース朝に引き継がれた。

 13世紀半ば、モンゴル軍の侵攻でアッバース朝のカリフが滅亡。カリフの子孫がマムルーク朝へ逃亡し、マムルーク朝はこれを保護した。

聖地メッカとメディナ

 マムルーク朝の権威はほかにもある。それは聖地の守護者である点である。

 イスラム教の重要な聖地は、メッカとメディアのあるヒジャーズ地方がある。現在はサウジアラビアの領土であるが、13世紀から15世紀までマムルーク朝が支配した。

 さらに、エルサレムも13世紀に十字軍から奪回した。

マムルーク朝の衰退

ペストの流行

 では、マムルーク朝は衰退に向かったのであろうか。その要因は14世紀のペストの流行にある。次回はこのペストの流行についてみていきます。