1930年代のエジプト ワフド党の政治

40年代前半のエジプト

 40年代前半、世界では第二次世界大戦が行われていた。エジプトもこの戦争に巻き込まれた。西方のリビア(イタリア)の侵攻を受ける。初戦は、リビア(イタリア)軍が優勢であったが、次第にエジプト軍が盛り返した。結果、イタリア軍は北アフリカから一掃された。

 当時のエジプトは、イギリスの保護国であったが、ある程度の自治が認めらていた。それを推進していたのがワフド党であった。

 さて、今回と次回で、エジプトが自治権を拡大していく過程を見ていきます。

主権の回復

エジプト=イギリス同盟条約

 22年、エジプト王国はイギリスからの独立を認められた。しかし、イギリス軍の軍事駐屯権はそのままになっていた。

 36年、イギリスとエジプトは新たな条約を締結した。エジプト=イギリス同盟条約である。この条約でエジプト王国はイギリスから軍事権を回復した。

 しかし、ここには条件が付いた。1つは、エジプトの南にあるスーダンの統治権はイギリスに残された。2つは、スエズ運河周辺にイギリス軍の駐屯は引き続き認められた。

 このエジプト=イギリス同盟条約は、52年のエジプト革命まで継続された。

第二次世界大戦への影響

 エジプト=イギリス同盟条約は、40年代の第二次世界大戦に大きな影響を与えた。エジプトの西のリビアは、イタリアの植民地であった。この国境は訓練が不十分なエジプト軍が守ることになった。

 第二次世界大戦が始まると、エジプト(イギリス)とリビア(イタリア)は敵国の関係になった。しかし、リビアはすぐにエジプトを攻めなかった。リビアの背後には、フランス領アルジェリアがあったからである。 

 しかし、フランスがドイツの占領下に入るとリビアとエジプトの戦争が始まった。

30年代のイギリス

植民地の自治権の拡大

 では、イギリスはエジプト=イギリス同盟条約に応じたのであろうか。その前に他のイギリス植民地の状況を見ていこう。

 イギリス領インドでは、ガンジーの塩の行進で35年憲法が成立。地方自治がみとめられた。

世界大恐慌とブロック経済

 では、なぜイギリス政府は植民地の自治権拡大を次々と容認していったのであろうか?

 その要因を探るために、29年の世界恐慌にまでさかのぼる。イギリスは、この世界恐慌から抜け出すためにブロック経済を導入した。

 ブロック経済とは、イギリスとイギリス植民地で経済圏を形成。この経済圏の外との貿易に対して高い関税をかけることで経済圏の産業を保護するせいさくである。この政策を維持するには、植民地の協力は不可欠であった。そのためイギリスは植民地の自治をこの時期に拡大させた。

日本とドイツ

 30年代、2つの国が台頭してきた。

 1つは、日本である。日本は、アメリカ、イギリスに次ぐ3番番目の軍事大国であった。20年代は、日英関係は良好でこれにより、アメリカをけん制していた。しかし、満州問題で日本が国際連盟を離脱。イギリスは重要なパートナーを失った。

 もう一つはドイツである。30年代に入ると、ナチスが台頭。再軍備宣言を発表した。

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