1970年代のエジプト 第4次中東戦争

エジプト=イスラエル平和条約

条約の概要

 79年、エジプトとイスラエルは講和条約を締結した。これにより48年のイスラエル建国時から4度にわたって続いた中東戦争は終結した。

 当時の両国のトップは、エジプトはサダト大統領で、イスラエルはビギン首相であった。

 エジプトは、講和の見返りに第三次中東戦争で奪われたシナイ半島を奪還した。

エジプトの孤立

 78年3月、エジプトとイスラエルはキャンプデービッド合意をする。同年11月、イラクのバクダッドでアラブ首脳会議を開催。イスラエルとの徹底抗戦を掲げるアラブ連盟は、エジプトを追放した。

 これにより、アラブ連盟は、本部機能をエジプトからチュニジアへ移した。

 アラブ連盟は、第二次世界大戦中の45年3月に成立した。アラブ人国家による同盟である。エジプト国王が提唱して設立され、本部はエジプトに置かれた。しかし、設立当時は王国同士の争いが多く、結束力が低かった。しかし、47年にイスラエルが建国されると反イスラエルで結束力が高まった。

イラン革命とカーター大統領

 エジプト=イスラエル平和条約で一番名をあげたのは、アメリカのカーター大統領である。

 カーター大統領は、中東にイランとエジプトという2つの盟友を得たのである。しかし、同78年、イランでホメイニ氏を誹謗する新聞記事が掲載された。イラン国民は大いに怒った。この怒りはイラン国王へ向った。79年1月、イラン国王は療養のため、アメリカへ亡命。翌2月、亡命中のホメイニ師が帰国。王政が倒れ、ホメイニ師を中心としてイラン=イスラム共和国が成立した。イランは、親米国家から反米国家へ変貌した。

サダト大統領の外交政策の転換

 では、なぜサダト大統領は孤立してまでもイスラエルと和平条約を締結したのだろうか。

 エジプトは4度の中東戦争で財政が圧迫していた。サダト大統領は、アメリカの資本なくして財政再建はありえないとかんがえていた。

 また、第4次中東戦争は最期は劣勢になったものの、シナイ半島を一時制圧した。また、石油戦略によって、アメリカなどの西側諸国は不況に入っている。そのため、イスラエルやアメリカから有利な条件を引き出せる可能性もあった。

第4次中東戦争

オイルショック

 第四次中東戦争で、サダト大統領はイスラエルの不敗神話打破した。サダト大統領はシナイ半島奪還という有利な条件を用いるために秘策を売った。

 石油の値上げである。第4次中東戦争中の73年10月、OPECは、石油価格を4倍に引き上げた。また、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエル支援国向けの石油輸出量を大幅に減らした。

 その結果、アメリカは第4次中東戦争の早期決着をさせるために仲介役を名乗り出た。その結果、第4次中東戦争は1か月で停戦した。

サダト大統領の電撃作戦

 73年10月、サダト大統領は、シリアとともにイスラエルへ侵攻した。この月はラマダン月であったのでラマダン戦争と呼ばれた。ラマダンで油断していたイスラエルは初戦を敗退。サダト大統領はシナイ半島を奪還した。しかし、イスラエルが大勢を立て直すとエジプトは劣勢。イスラエルは、アメリカを通じて停戦に持ち込んだ。第4次中東戦争は4か月で合意した。

サダト大統領

ナセル大統領の死

 60年代、エジプトは第3次中東戦争で敗北をした。エジプトのナセル大統領は、70年、失意のうちに亡くなった。後を継いだのがサダト大統領であった。

 サダト大統領は、ナセル前大統領と同じ自由将校団のメンバーであった。ナセル前大統領の副官を務めていた。

サダト大統領の政策転換

 サダト大統領は、ナセル大統領の政策を転換した。経済面では自由主義経済の導入を始めた。外交面では、親ソ政策から全方面外交へ転換した。

 71年には憲法を改正。国名をアラブ連合共和国から、エジプト=アラブ共和国に変更した。