1990年代のエジプト ムバラク大統領と湾岸戦争

オスロ合意

パレスチナ問題とは

 紀元前15世紀頃、現在のイスラエルの地にはユダヤが定住していた。この地はパレスチナと呼ばれていた。紀元前11世紀頃になると、ユダヤ人国家が成立。ユダヤ教を信仰するようになった。その後、ユダヤ人の住むパレスチナには様々な異民族支配するようになり、ユダヤ人は世界各地へ移住するようになった。

 6世紀、イスラム教が成立すると多くのアラブ人がパレスチナに住むようになった。彼らはパレスチナ人と呼ばれるようになった。

 19世紀に入ると、各地に散らばったユダヤ人らは、パレスチナにユダヤ人国家を復活させようという動きが発生した。これがシオニズム運動と呼ばれた。

 第一次世界大戦期(1910年代)、イギリスはパレスチナの地にユダヤ人国家の建設をユダヤ人と約束した。(三枚舌外交)。第二次世界大戦が終結(1940年代)すると、イスラエルが建国。パレスチナ人は、ユダヤ人によって居住地を追われることになった。

ムバラク大統領とイスラエル

 ムバラク大統領は、親イスラエルの外交をとりつつ、アラブ諸国との関係回復に成功。ムバラク大統領はイスラエル和平の重要なキーマンとなった。

イスラエル

 イスラエルは、1948年にパレスチナの地に成立したユダヤ人国家である。民族や宗教の違いから周辺のアラブ諸国から建国当時から敵視され続けていた。

 92年、第3次中東戦争の英雄であるラビン首相が誕生した。元々、ラビン首相はパレスチナ人に対しては強硬な態度を示していた。

PLO

 PLO(パレスチナ解放機構)とは、パレスチナに住むアラブ人の解放をめざす武装組織である。彼らはアラブ連盟の支援を受けて、活動をしていた。

 中心人物は2人である。イスラエル国内で活動をしていたハマスとチュニジアに亡命中のアラファト議長である。

中東和平会議

 91年、スペインのマドリードで湾岸戦争の講和会議が行われた。この会議には多くのアラブ諸国が参加した。しかし、PLOが呼ばれていないことが問題視された。

オスロ合意

 中東和平会議で、PLOが参加できなかったため、アメリカやソ連を仲介役とした、中東和平はできなくなった。代わりに仲介役に立ったのが北欧のノルウェーであった。PLOとイスラエルは、ノルウェーのオスロで秘密裏の会談を繰り返した。

 92年、イスラエルでラビン首相が誕生。同92年11月のアメリカ大統領選挙では、民主党のクリントン大統領が勝利。

 93年9月、アメリカのホワイトハウスでイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が握手。オスロ合意が成立した。翌94年、パレスチナ暫定自治協定も結ばれた。これにより、5年間期限付きでのパレスチナ暫定自治が成立した。

ラビン首相暗殺

 94年7月、PLOのアラファト議長が25年ぶりにパレスチナに帰国した。翌95年の選挙で、アラファトが暫定自治政府代表に就任した。

 アラファト代表が誕生した95年、イスラエルで事件が発生。ラビン首相がユダヤ教徒に殺害された。翌96年メタニヤフ首相が跡を継いだ。しかし、この事件によってイスラエル和平はまた遠のいた。

湾岸戦争とは

イラク情勢

 舞台は、イスラエルからイラクに代わる。イラクはフセイン大統領が統治していた。80年代後半、イラクはイラン=イラク戦争に勝利した。しかしのその代償としてアメリカに対してかなりの借金を抱えることになった。フセイン大統領は、借金返済を行うため石油価格の値上げを検討した。しかし、サウジアラビアなどが反発。この政策は思うようにいかなかった。

クウェート侵攻

 90年8月、クウェート編侵攻。8時間で制圧した。クウェートは、サウジアラビアとともに石油低価格路線を進めていたためである。

サウジアラビアにアメリカ軍駐屯

 イラクの次のターゲットは、当然サウジアラビアと考えてられていた。アメリカのブッシュ大統領は、サウジアラビアへの援軍派遣を決定。サウジアラビアもこれを受け入れた。UAEなどのペルシャ湾岸諸国もこれを支持した。しかし、サウード家の王族でこれを支持しないものがいた。それがビン=ラディン氏である。ビン=ラディン氏は国外追放処分をうけ、アフガニスタンで亡命生活を行うようになる。

 ムバラク政権は、この時サウジアラビアとの協力と引き替えにアラブ連盟に復帰。イラクへの非難決議を行った。

湾岸戦争とパレスチナ問題

 フセイン大統領は、アメリカとサウジアラビアの仲間割れにするために、イスラエルを攻撃した。これにより、湾岸戦争を第五次中東戦争にしようとした。

 しかし、ブッシュ大統領がイスラエルの報復をストップさせたため、フセイン大統領の思惑は思うようにいかなかった。また、パレスチナに対して湾岸戦争後に和平交渉を約束した。

湾岸戦争

 アメリカのブッシュ大統領は、国連軍を編成することができなかった。そのため、有志連合という形の多国籍軍を編成した。エジプトのムバラク政権も多国籍軍に参加した。

 翌91年1月、湾岸戦争が開始。100時間で終結した。フセイン大統領は国連決議を受け入れた。

中東和平会議

 湾岸戦争は、多くのアラブ諸国の協力のもとで勝利した。そのため、パレスチナ問題の解決が不可避であった。91年10月、プペインのマドリードで中東和平会議が行われた。主催は、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長である。

 この会議は、大きな問題点あったため、不調に終わった。その理由は当事者であるPLOのアラファト議長が呼ばれなかったことである。これにより、パレスチナ問題の解決に至らなかった。