2010年代のエジプト アラブの春とその後

 2010年代の中東は激動の時代となった。アラブの春で中東の長期独裁政権が次々崩壊。エジプトもその一つであった。

アラブの春の後のエジプト

 11年、アラブの春でムバラク政権が崩壊。翌12年、新憲法が成立し、ムルシィー大統領が誕生した。

 ムルシィー政権に求められたのは民主化ではなく景気の回復であった。ただ、景気は一向に回復せず、財政も悪化した。そのためIMFの融資を受けることになった。IMFは融資の条件として貧困層向けの補助金の削減を求めた。これによりムルシィー政権は国民の支持を失った。

 翌13年に反政府デモが発生。軍事クーデターでムルシィー大統領は解任された。憲法は修正され、エルシーシ大統領の軍事政権が誕生して現在に至る。

 エジプトは、ピラミッドなどの歴史的遺産に恵まれた観光立国である。しかし、リーマンショックやギリシャ通貨危機による不況やアラブの春による治安の問題で観光収入が激減した。

 エルシーシ大統領は、湾岸諸国の財政支援やIMFの融資を利用して経済の立て直しに取り組んでいる。

アラブの春

概要

 アラブの春は、2010年代初頭に起きた北アフリカや中東で勃発した民主化運動である。このじけんにより、多くの長期独裁政権が崩壊した。

原因 チュニジア青年の焼身自殺

 2010年頃の世界経済はリーマンショックの影響で、深刻な不況に見舞われていた。北アフリカや中東もその例外ではなかった。これらの地域では若年層の失業率が高く、彼らは生活に困窮していた。

 そのような中、北アフリカのチュニジアで一つの事件が発生した。ある青年が路上で販売をしていた。そこへ警察が取り締まりにやってきた。警察官は青年に賄賂を要求。しかし、青年は賄賂を支払うことができなかった。警察官は、青年から商品と商売道具を没収した。彼は生活の糧を失った。失望のどん底に立った青年は、県庁の前で抗議の焼身自殺を行った。10年12月の出来事であった。

 このニュースは瞬く間にチュニジア全土を駆け巡った。1月には首都チュニスで大規模な反政府デモが発生。大統領は亡命。ベン=アリ政権は崩壊した。この革命をジャスミン革命という。

 この事件は、アラブ全土に伝わった。もちろん、アラブ諸国のマスメディアはこのニュースを報じることはなかった。このニュースをアラブの若者に伝えたのはツイッターなどのSNSであった。

ムバラク政権の崩壊

 エジプトでは、ムバラク大統領による長期軍事政権が成立していた。エジプトの若者は、失業者が多く、ムバラク政権に強い不満を持っていた。ここへ11年1月のチュニジアの革命のニュースが入ったのである。

 エジプトで大規模の反政府デモが勃発。ついに11年の春、ムバラク政権は崩壊した。これをエジプト革命という。

ムスリム同胞団

 エジプト革命の中心にいたのはムスリム同胞団であった。ムスリム同胞団は、スンナ派のイスラム原理主義の団体である。この団体は20世紀前半のイギリス植民地時代に結成された団体で、当初はイギリスなどの西洋勢力と争っていた。これは50年代のナセル大統領の誕生で一定の成果を得た。

 しかし、ムバラク政権下では、ムスリム同胞団は弾圧を受けていた。

 エジプト革命でムバラク政権が崩壊すると、政党を結成。ムルシィ政権では入閣を果たす。

 13年のクーデターでエルシーシ政権が誕生すると、ムスリム同胞団は再び非合法化。現在も取り締まりの対象となっている。

その他の国では

 アラブの春は、他の国へも飛び火した。北アフリカのリビアや中東のイエメンでも長期政権が崩壊している。

 また、中東のシリアでは内戦が勃発。現在もこれが続いている。