紀元前4世紀のエジプト アレキサンダー大王の征服

紀元前3世紀のエジプト

 紀元前3世紀のエジプトは、プトレマイオス朝の全盛期であった。エジプトは経済的にも文化的に大きく反映した。

 今回は、プトレマイオス朝の建国の過程を見ていきます。

プトレマイオス朝の建国

ヘレニズム3国

 アレキサンダー大王の死は突然であった。後継者を指名せずに亡くなった。そのため、アレキサンダー大王の死後、後継者争いの内戦が起きた。

 アレキサンダー大王は、西地中海(ローマなど)への侵攻を計画していた。そのため、強い武将は東地中海沿岸に集中していたと推測される。そのため、地中海沿岸の3つの国に集約されていった。

 プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアアンディゴノス朝マケドニアである。この3国はヘレニズム3国とよばれ、紀元前2世紀から紀元前1世紀に滅亡した。

文武両道のプトレマイオス1世

 プトレマイオス朝を開いたのは、プトレマイオス1世である。プトレマイオス1世は、アレキサンダー大王を継いでファラオになった。

 プトレマイオス1世は、軍人としてもすぐれていたが、学術支援を行っていた。若き頃は、アレキサンダー大王とともに、アリストテレスに教わった。建国後は、エジプトに研究施設ムセイオンを建設。ギリシャから多くの学者を招いた。

 また、アレキサンダー大王がバビロン(イラク)で亡くなると、故郷のマケドニアに埋葬される予定であった。しかし、プトレマイオス1世はこれを強奪。アレキサンダー大王はエジプトに埋葬された。

アレキサンダー大王

新首都アレキサンドリア

 アレキサンダー大王は、征服地にギリシャ人を入植させた。入植したギリシャの人々は、新たな街を作った。これらの街はアレキサンドリアと呼ばれた。その最大のものが、エジプトのアレキサンドリアである。

 この都は、31年に建設が始まった。

エジプトの解放者

 アレキサンダー大王は、32年にメンフィスを占領。大きな戦闘もなくエジプトを征服した。

 当時のエジプトは、43年にアケメネス朝ペルシャに再征服されたばかりである。エジプトの人々は、アレキサンダー大王を解放者として歓迎。アレキサンダー大王はファラオとしてまつられた。 

アレキサンダー大王とは

 アレキサンダー大王は、ギリシャの北の小国マケドニアに生まれた。父フィリポス3世は、38年、ギリシャのポリスを支配下に置いた。しかし、36年に暗殺された。

 父が亡くなると、アレキサンダー大王は即位した。

アレキサンダー大王の征服ルート

 アレキサンダー大王は、ギリシャ人の不満をそらすために拡張政策をとっていった。

  • 第一幕、東方遠征の開始
    • 34年 東方遠征を開始。まずはトルコ東部(小アジア)
    • 33年 アケメネス朝ペルシャが防衛軍を送る。
      アレキサンダー大王は、これを撃退。
         この後、アレキサンダー大王は、地中海沿岸を進んだ。
    • 32年 シリアのフェニキア人の拠点を征服。
    • 32年 エジプトに無血入城。
         アレキサンダー大王は、ここで休憩した。
  • 第二幕、アケメネス朝の滅亡
    • 31年秋、ダレイオス3世をを破る。
    • 30年1月、アケメネス朝の王宮に侵入。
  • 第三幕、中央アジアへ
    • アレキサンダー大王は、敗走するダレイオス3世を追ってイランへ向った。さらに、中央アジアへ侵攻した。中央アジアを征服すると、ギリシャ商人が植民。各地に都市が形成された。
  • 第三幕、インドへ
    • 27年、インドへ侵攻。パンジャブ地方(現在のパキスタン)を征服。インダス川まで征服した。
  • 第五幕、アレキサンダー大王亡くなる。
    • 23年、バビロン(イラク)に戻る。
    • その後、地中海西部(カルタゴ、ローマ)への侵攻を考えていた。
    • しかし、アレキサンダー大王は病死した。

アケメネス朝

エジプト末期王朝

 エジプト末期王朝は、紀元前12世紀に海の民に侵略されて以降の王朝である。第21王朝から第31王朝が末期王朝の時代といわれる。

アケメネス朝とは

 アケメネス朝は、紀元前6世紀に成立したイラン人の王朝である。

 エジプトは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝に征服されたがその後、独立を回復した。

アケメネス朝の再征服

 41年、アケメネス朝は、エジプトを祭服。エジプトは再びアケメネス朝の支配に入った。

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