15世紀のスペイン レコンキスタと大航海時代

前回の復習 16世紀前半のスペイン

 16世紀前半のスペインは、カルロス1世の時代である。ここからハプスブルク家の支配が始まる。この時代のスペインは神聖ローマ帝国など、ヨーロッパの大半を支配していた。さらに、アステカ帝国、インカ帝国を征服。アメリカ大陸を統治し、東南アジアのフィリピンを獲得した。

15世紀の国際情勢

 15世紀の日本は、室町時代。足利義満の時代から、応仁の乱を経て、戦国時代に入っていく時代である。

 中国は、明王朝の時代。イスラム圏ではティムール朝の時代である。

 ヨーロッパでは、百年戦争が終結。敗北したイングランドはバラ戦争が入っていく。一方で、勝利したフランスは、イタリア戦争へ向かっていく。

トルデシリャス条約

ポルトガルのインド航路発見

 98年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。これにより、ヨーロッパからインドまでの航路は発見された。しかし、15世紀のインド洋はムスリム商人の勢力圏である。16世紀に入るとポルトガルとムスリム商人の間でインド洋をめぐり勢力争いが始まる。

コロンブスの晩年

 コロンブスは、93年5月に教皇子午線が設定されると、再びアメリカ大陸(当時はアジアと信じられていた)へ向かった。コロンブスは、新大陸の村を次々襲い、金銀財宝を獲得するとともにネイティブ・アメリカンを奴隷とした。コロンブスは、金銀財宝と奴隷をスペイン本国へ送った。

 しかし、イザベル女王は金銀財宝の少なさから激怒、奴隷をアメリカへ送り返した。奴隷とアメリカに送り届けたスペイン海軍は、コロンブスの調査に当たった。コロンブスは、釈明のために一時帰国するとともに、現地人を使って黄金探しを徹底した。

 ネイティブ・アメリカンは、過酷な労働とヨーロッパからもたらされて感染症で数多く亡くなった。

トルデシリャス条約

 トルデシリャス条約は、94年に締結したスペイン・ポルトガル間の大西洋の分割協定である。もともと、93年に成立した教皇子午線が制定されていたが、ポルトガルが不服としたために、西へ移動された。アフリカ沖のアゾレス諸島から100ガロンから300ガロンに変更された。

 これにより、ブラジルの一部がポルトガルの勢力圏になった。これがポルトガルのブラジル領有の根拠になった。

教皇子午線

 教皇子午線は、93年にローマ教皇が提示したポルトガルとスペインの大西洋の境界線である。

 92年、スペインはコロンブスによって大西洋横断航路を獲得した。93年、コロンブスは帰還した。帰還したコロンブスは次の航海の準備を始めた。

 ただ、大きな懸念があった。そのため、スペインは、ローマ教皇を通じて大西洋横断の独占を認めてもらった。これが教皇子午線である。

 具体的には、アフリカ大陸沖のアゾレス海から100ガロン

伝説の1492年

コロンブス、アメリカ到達

 1492年は、スペインにとって重要な年である。2つの重要な出来事が起こっている。レコンキスタの完了とコロンブスのアメリカ到達である。

 レコンキスタが完了したスペインでは新たなプロジェクトが始まった。それが大西洋の横断である。

 スペインは、大航海時代でポルトガルに対して大きな遅れを取っていた。そのために起死回生の一手を考えていた。イタリア生まれの船乗りコロンブスは、大地は平面ではなく球形であると考え、大西洋をひたすら西へ向かうほうがインドへの近道として大西洋横断を試みた。地球球形説を唱えたのが、イタリアの天文学者トスカネリでした。

 船乗りのコロンブスは、最初にポルトガルに投資を持ちかけた。しかし、ポルトガルは、すでに喜望峰経由のインド航路を確立。リスクの高いコロンブスの提案に乗らなかった。つぎに、イングランド(テューダー家のヘンリ7世)やフランス(ヴァロワ家のシャルル8世)にも投資を持ちかけた。しかし、コロンブスの荒唐無稽の提案に乗らなかった。

 スペインのイザベル女王(カルロス1世の祖母)が、コロンブスに投資した。ちなみに、夫のフェルディナンドはこの投資には反対であった。

 イザベル女王はサンタフェ条約で取り分を決めるとともに、発見した土地(アジア、実はアメリカ)の総督の地位を約束した。契約を結んだのは、グラナダ近郊のサンタフェという街であった。

 資金提供を受けたコロンブスは、8月にスペインの港を出港した。この航海には、後に聖職者になるラス=サカスも参加していた。アフリカ沖のカナリア諸島に帰港後、地図のない航海が始まった。

 10月、西インド諸島のある島に到着した。コロンブスは、この島とサン・サルバドル島と名付けた。先住民のネイティブ・アメリカン(インディアン)はこれを歓迎。ヨーロッパで安価なガラスの玉と金銀財宝を交換した。

 西インド諸島の探検を行い、キューバ島を発見している。翌93年1月に、西インド諸島から帰国。3月にスペインに戻った。

ユダヤ人の追放

 3月、スペインは、ユダヤ教徒追放令を出した。ユダヤ教徒追放令とは、スペイン国内のユダヤ教徒に対してカトリックへの改宗か国外退去を求めるものであった。

 15世紀のスペインでは、多くのユダヤ人が生活していた。イスラム教では、シズヤ(人頭税)を支払えば、イスラム教以外の信仰は認められた。そのため、ユダヤ人が多く生活していた。

 一方、レコンキスタをすすめたスペインの人々は、熱心なキリスト教徒であった。とくに、キリストを十字架にかけたユダヤ教徒は忌むべき的であった。1月にレコンキスタが完了すると、3月にはユダヤ教徒追放令を出した。

 ユダヤ教徒追放令が出されると、多くのユダヤ人はポルトガルやオスマン帝国へ移住した。

レコンキスタ完了

 92年1月、スペインは、グラナダを陥落。イスラム教国のナスル朝を滅亡。レコンキスタ(国土回復運動)は完了した。

スペイン王国成立

スペイン王国の成立

 69年、カスティーリャ王女イザベルとアラゴン国王フェルナンドが結婚。74年、前カスティーリャ国王が崩御。イザベルがカスティーリャ王位を継承。76年、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合同。スペイン王国が成立した。

 96年、ローマ教皇アレクサンドル6世は、フェルディナンド・イザベル夫妻に「カトリック両王」の称号を与えた。その要因は3つある。レコンキスタの完成、新大陸での布教とイタリア戦争での貢献である。

子どもたち

 フィルディナントとイザベル夫妻には、1男4女が生まれた。娘たちは、ポルトガル、ブルゴーニュ、イングランドへ嫁いだ。

 男子は、若くして亡くなる。そのため、ブルゴーニュ公のに嫁いだファナの息子を次期国王にした。これがカルロス1世である。

 ポルトガル王家は、16世紀後半に断絶。スペインへ併合された。

 イングランドへ嫁いだカタリーナは、男子に恵まれなかった。これがヘンリ8世の離婚問題につながる。

イタリア戦争

 94年、アラゴン前国王が死去。フランス(ヴァロワ家)が南イタリアのナポリ王国の王位継承権を主張した。

 アラゴン国王フェルディナンドは外交交渉を開始。ローマ教皇、神聖ローマ皇帝(ハプスブルグ家)、イタリア諸国と結びつき、反フランス同盟を結成。

カスティーリャ王国とイザベル

 カスティーリャ王国は、イベリア半島中央部にある国である。南がイスラム教国のナスル朝である。いちばん最後までイスラム教国と戦い続けたのがカスティーリャ王国である。

 15世紀のカスティーリャ王国は、ポルトガル派とアラゴン派で対立していた。イザベルは、アラゴン王国へ嫁いだが、その後、ポルトガル派によりイザベルの兄が国王に即位。アラゴン派のイザベル女王らは国外通報された。前国王がなくなると、アラゴン派が復活。前国王の娘ではなく、イザベルが女王になった。

アラゴン王国とフェルディナンド

 アラゴン王国は、スペイン北部(フランス側)にある国である。13世紀「シチリアの晩鐘」で南イタリアに進出した。

 この南イタリアが、15世紀末のイタリア戦争の舞台になる。

ナスル朝の滅亡

 ナスル朝は、イベリア半島で最期のイスラム王朝である。13世紀初頭、衰退期のムワッヒド朝から独立した。

ポルトガルのアフリカ探検

15世紀のポルトガル

 ポルトガルは、スペインよりも先に、レコンキスタ完了した。最初に行ったのは、イスラム軍が拠点とするアフリカ北西部の港を抑えることにあった。

 15世紀初頭、活躍したのは航海王エンリケ王子である。15年にモロッコのセウタを征服。45年には、アフリカ大陸最先端のヴェルデ岬に到達した。

 エンリケ王子は、沿岸部の確保とともにアフリカ内陸部の金山の捜索が行った。金鉱山を発見することができなかったが、多くの黒人奴隷を本国へ持ち帰った。

 60年、エンリケ王子がなくなると、国王ジョアン2世が引き継いだ。そして、88年、船乗りバルトロメオ=ディアスは、アフリカ最南端の喜望峰に到達した。

15世紀のアフリカ

 ポルトガル探検したアフリカは、どのような状況であったのであろうか。ポルトガルの探検ルートに沿ってみていきましょう。

 スペイン・ポルトガルの真南に当たるモロッコである。この血には、14世紀に全盛期を迎えたマリーン朝が存在した。しかし、15世紀に入り革命で滅亡。ワッタース家の統治が始まる。

 モロッコを更に南に向かうと、ニジェール川の河口をたどり突く。ニジェール川流域は、当時金の産地であった。14世紀にはマリ王国が全盛期を迎えていた。15世紀に入るとソンガイ王国が台頭していく。

 その南にはギニア湾があり、更に南に行くとコンゴ盆地につながるコンゴ川にたどり着く。ここには14世紀に成立したコンゴ王国がある。

 そして、喜望峰にたどり着く。ちなみに、バルトロメウ・ディアスが喜望峰にたどり着いたのは88年のことである。

 喜望峰をまわり、アフリカ東海岸に向かうとザンベジ川にたどり着く。ここには14世紀から15世紀にかけて全盛期を迎えた大ジンバブエ遺跡がある。ムスリム商人はこの地まで交易を行っていた。インド洋交易路で金を輸出することで栄えた。15世紀に入るとモノモタバ王国が成立する。

 アフリカ東海岸では、ムスリム商人による港湾都市が形成されていた。南から、モザンビーク、キルワ、ザンジバル、モンバサ、マリンディ、モガディシュがある。

 15世紀初頭には、明王朝の鄭和がマリンディに来訪している。98年、ヴァスコ・ダ・ガマは、キルワ、モンバサ、マリンディに寄港して、インドへ向かっている。

 アフリカ東海岸では、北部では象牙、南部では金を輸出していた。さらに黒人奴隷の供給地でもあった。衣類や鉄器、陶器を輸入していた。

 言語は、土着の言葉とアラビア語が混ざったスワヒリ語が使われている。