前回の復習 16世紀前半のフランス
16世紀のフランスは、ヴァロワ朝の時代。フランソワ1世の時代。神聖ローマ皇帝カール5世とイタリア戦争が展開されていた。
フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。
カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝
15世紀の国際情勢
15世紀は、中世から近世への転換点。騎士や武士を中心とした封建社会が崩壊していく時代である。
日本は室町時代。応仁の乱をきっかけに戦国時代へ向かっていった。
中国は明王朝の時代。永楽帝の全盛期で始まったが、土木の変などの北虜南倭で衰退期に向かっていく。
コンスタンツ公会議
概要
14年、神聖ローマ皇帝がコンスタンツ公会議が招集。ドイツのコンスタンツで18年まで行われた。
教会大分裂が終了
一番大きな議題は、教会大分裂の解消である。ローマ=カトリックのトップである教皇は1人である。しかし、この時期教皇は3人いた。ローマ以外に、アヴィニョンとピサ(イタリア)にいた。
コンスタンツ公会議では、3人の教皇を全員退位させ、新教皇を選出。教皇庁はローマに戻した。
宗教改革の前哨戦
コンスタンツ公会議では、2人の神学書の処刑を行った。プラハ大学(チェコ)の神学者フスが火刑に処せられた。また、オックスフォード大学(イングランド)のウィクリフはすでになくなっていたが、墓を暴いて遺体を燃やした。
フスの火刑を受けて、神聖ローマ帝国ではフス戦争が勃発する。
百年戦争に勝利
概要
英仏百年戦争とは、14世紀半ばから15世紀半ばまで続いたイギリスとフランスの間で行われたフランス王位を巡る戦争である。
13世紀なかばにフランス王朝のカペー朝が断絶。その後継をめぐり、イングランドのプランタジネット朝とフランスのヴァロワ朝との戦いである。フランスの貴族たちは、2手に分かれて戦った。
ブルゴーニュ公と2人の国王
フランス貴族は、イングランド側とフランス側に分裂した。イングランド側についた有力貴族は、ブルゴーニュ公である。フランス東部を基盤にした。
一方で、フランス側をついたのは、オレルアン・アルマニャック派であり、西部を基盤にしていた。
2つの派閥は、それぞれフランス国王を擁立。2人のフランス国王が成立した。オレルアン派が擁立したのがシャルル7世であった。
28年、ブルゴーニュ派がオレルアン派の拠点オレルアンを陥落した。
ジャンヌ=ダルク
しかし、オレルアン派に逆転のきっかけを掴んだ。ジャンヌ=ダルクとの出会いである。
ジャンヌ=ダルクは、29年にオレルアンを奪還した。ランス大聖堂で、シャルル7世の戴冠式が行われた。
ジャンヌ=ダルクは、その後、戦闘で捕虜になり、イングランドで火刑に処せられた。
終結
35年、ブルゴーニュ派と講和。
36年、パリを回復。
50年、ノルマンディーをイングランドから奪回。
53年、ボルドーを回復。百年戦争が終結。イングランドは、カレーを除く大陸領土を喪失。
ちなみに、カレーは、16世紀のイタリア戦争時にフランス領になる。
イタリア戦争が勃発
概要
イタリア戦争は、15世紀末から16世紀半ばにわたって行われた。フランス=ブルボン朝とハプスブルグ家との間で行われた。
92年、フランス国王シャルル8世が、南イタリアのナポリ王国へ侵攻。
99年、フランス国王ルイ12世が、北イタリアのミラノ公国に侵攻。
ローマ教皇とイタリア
ローマ教皇は、ローマ=カトリックのトップであるとともに、中部イタリアの領主のでもあった。
92年、スペインのボルジア家出身のアレクサンデル6世がローマ教皇に就任。周辺国のトラブルの介入するようになった。
ナポリ侵攻
イタリア戦争の始まりは、94年のナポリ王国への侵攻である。
イタリアは、北部は小国が乱立。中部には教皇領がある。南部には、シチリア島とナポリ王国があった。
15世紀初頭、ナポリ王国は、フランス系アンジュー家で継承されていた。35年にアンジュー家が断絶。スペインのアラゴン王がナポリ王になった。
94年、アラゴン王が崩御。フランス国王シャルル8世がスペイン王位を主張した。
ローマ教皇は、これを認めず。シャルル8世は、スイスの傭兵部隊を雇ってイタリアへ侵攻。95年2月、ナポリを占領した。
翌3月、ローマ教皇は、ナポリ王国をフランスから奪還するために神聖同盟を結成した。これを受けて、フランス国王シャルル8世は、ナポリを捨てて、フランスへ帰還した。