4世紀のドイツ ゲルマン民族の大移動

前回の復習 5世紀のドイツ

 5世紀、ドイツのもとになったフランク王国が建国された。また、この時期に西ヨーロッパの中心的な存在であった西ローマ帝国が滅んだのも5世紀である。

 さて、今回は、ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂を見ていきます。

ゲルマン民族の大移動

ゴート族 vs ローマ帝国

 4世紀後半、東ゴート族がアジア系騎馬民族のフン族に征服された。西ゴート族はドナウ川を越え、ローマ帝国領へ侵入した。この事件をきっかけに、ゲルマン民族は続々とローマ帝国領へ侵入していった。これが、第一次民族大移動をいわれる。

 西ゴート族は、当初ローマ帝国の人々に冷遇されていた。そのため、反乱を起こした。この反乱をアドリアノーブルの戦いという。この反乱は大規模なもので、ローマ皇帝が戦死するほどであった。

フン族の侵入

 フン族は、アジア系の騎馬民族である。この民族は匈奴の残党という説がある。匈奴は紀元前3世紀末にモンゴル高原に大帝国を開いた騎馬民族である。春秋戦国の戦乱期に作られた万里の長城のきっかけになったものである。4世紀には五胡十六国の一つとして、中国北部へ侵入した。

 話をフン族に戻す。フン族はこの頃に南ロシアに入り、4世紀後半にはゲルマン民族の東ゴート族を征服した。

ゲルマン民族とアリウス派

 4世紀、ミラノ勅令でキリスト教が公認されると、聖書の解釈で論争が行われた。これにより、2つの派閥ができた。アリウス派とアタナシウス派である。この論争に終止符を打つため、コンスタンティヌス帝は、ニケーア公会議を開催。アリウス派を異端とした。

 アリウス派の人々は、ローマ帝国内で布教ができなくなった。そのため、ドナウ川を渡り、ゲルマン民族に対して布教を行った。この時期に多くのゲルマン民族がアリウス派への改宗を行った。

4世紀のローマ帝国

キリスト教の国教化

 デオドシウス帝は、スペイン出身の軍人である。前皇帝がゴート族の反乱で戦死したことで皇帝になった。

 デオドシウス帝は、キリスト教を国教化し、それ以外の宗教を禁止した。そのため、古代オリンピックがこの時期に終わった。

背教者ユリアヌス帝

 コンスタンティヌス帝が亡くなると、息子のコンスタンティヌス2世が皇帝になった。コンスタンティヌス2世は、皇帝の地位を脅かすコンスタンティヌス帝の兄弟たちを殺害した。

 コンスタンティヌス帝の甥であったユリアヌス帝は、幼少のため、殺害されずに幽閉された。幽閉中にギリシャ哲学を学び、キリスト教に違和感を感じていた。

 ユリアヌス帝は、成人するとガリア(フランス)の統治を任された。ユリアヌス帝はガリアの兵隊たちに強い支持を受けた。コンスタンティヌス帝にササン朝への援軍を要請されると、ガリアの人々の支持を受け、反乱の準備を始めた。しかし、ユリアヌス帝が反乱を起こす前にコンスタンティヌス2世は亡くなった。

 ユリアヌス帝は、コンスタンティヌス2世が死ぬと皇帝についた。ユリアヌス帝は、異端とされたアリウス派やミトラ教の侵攻を認めた。そのため教会関係者から疎まれた。そのため、ユリアヌス帝は、背教者と呼ばれることになった。

キリスト教の公認

 4世紀初頭、ローマ帝国は4つに分割されそれぞれに皇帝が置かれた。その時、西の皇帝であったのがコンスタンティヌス帝である。コンスタンティヌス帝は西の皇帝の時代の時に、キリスト教を公認した。勅令を出したイタリアの都市の名をとり、ミラノ勅令と呼ばれた。

 コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を再統一。都をコンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)へ移した。

 コンスタンティヌス帝は、コロヌス土地緊縛令が出された。コロヌスとは農奴という意味である。この法律により、農奴は移動の自由が禁じられた。

 ニケーア公会議を開催したのは、コンスタンティヌス帝である。