8世紀のドイツ カールの戴冠とイスラム教

前回の復習 9世紀のドイツ

 9世紀、フランク王国は分裂。ドイツの前身となる東フランク王国とフランスの前身となる西フランク王国に分裂した。

 さて、今回は、フランク王国がヨーロッパの大部分をし廃止するまでの過程を見ていきます。

カール大帝

カールの戴冠

 00年、キリスト生誕800年を祝って、カールの戴冠式が行われた。これにより、ローマ教皇は、ビザンツ皇帝を否定し、フランク王国のカロリング家を正式なローマ皇帝と認めた。これは、ビザンツ皇帝を持つ東方正教会への宣戦布告でもあった。

 一方で、カロリング家はフランク王国の諸侯に対し、堂々と国王と名乗れるようになった。

 ちなみに、これ以降、異民族の撃退と戴冠式がセットになるようになる。

 カール大帝 - アヴァール人の撃退
 オットー1世 - マジャール人の撃退

ザクセン族との戦い

 ザクセンは、ドイツ北西部の拠点を置くゲルマン民族である。フランク王国のカール大帝はザクセンへ侵攻。9世紀初頭にようやくザクセン併合を完成した。

 ザクセンがフランク王国が9世紀に併合されると、ノルマン人が、イングランドやフランク王国北部へ略奪行為を行うようになった。

アヴァール人の撃退

 アヴァール人は、アジア系騎馬民族である。5世紀には国会北部(南ロシア)に進出。7世紀にはパンノニア平原(現在のハンガリー)に大帝国を建国した。

ちなみに、ヨーロッパでのアジア系騎馬民族の侵入の歴史は以下のとおりである。

  • 5世紀ーフン族(グロービスが撃退→メロヴィング朝)
  • 8世紀ーアヴァール人(カール大帝が撃退→カロリング朝)
  • 10世紀ーマジャール人(オットー1世が撃退→ザクセン朝)

 アヴァール人は、ハンガリーのキリスト教施設やローマ時代の建造物を次々破壊した。そのため、この地域には6世紀以前の文化遺産は少ない。

 カール大帝は、このアヴァール人を撃退した。これにより、アヴァール人は衰退。パンノニア平原は空白地帯になり、その後、マジャール人が定住するようになる。

バイエルン併合

 バイエルンは、現在ドイツ南部の1つの州であり、州都はミュンヘンである。

 当時この地には、ゲルマン民族のバイエルン族が拠点を置いていた。8世紀末にカール大帝はバイエルンを併合した。

ランゴバルド王国の併合

 カール大帝は、イタリア北部のランゴバルド王国を併合した。これにより、フランク王国の領土はイタリア北部まで及ぶようになった。

 ちなみに、この地域はランゴバルド王国の名残でロンバルディア地方と呼ばれる。

ピピンの寄進

ピピンの寄進

 ここからは、カール大帝の父であるピピンの時代を見ていきます。ピピンの最大の功績は、ピピンの寄進である。

 ピピンは、ローマ教皇の要請でイタリアへ侵攻。中部イタリアのラヴェンナをランゴバルト王国から奪還した。ラヴェンナ地方は、ローマ教皇へ寄進し、ピピンはイタリアから撤兵した。

 以後、中部イタリアは教皇領となった。

ローマ教皇とランゴバルド王国の対立

 では、ローマ教皇はなぜ、ピピンにランゴバルト王国への侵攻を依頼したのであろうか。

 ランゴバルド王国とローマ教皇の関係は当初良好であった。しかし、ランゴバルド王国はイタリア半島の統一を目指した。そのため、ランゴバルド王国とローマ教皇の関係は急速に悪化した。

ランゴバルド族とは

それでは、ランゴバルド族とはどのような人々だろうか。ランゴバルド族は、ゲルマン民族の一つである。

 ランゴバルド族は、ビザンツ帝国の支配下にあった。6世紀のユスティアヌス帝の時代に、ビザンツ帝国の拡大とともにイタリアへ入った。ユスティアヌス帝の死により、ビザンツ帝国は衰退した。このタイミングでランゴバルト族はビザンツ帝国から独立。

 8世紀に入ると、聖像禁止令でビザンツ帝国(東方正教会)とローマ教皇の関係は悪化した。ローマ教皇は、独立したばかりのランゴバルド王国に接近した。そして、51年にビザンツ帝国からラヴェンナを奪った。この年は、ピピンがフランク国王になった年でもあった。

ラヴェンナとは

 ラヴェンナは、イタリア西部の都市である。

 5世紀初頭にミラノを捨てた西ローマ帝国が遷都したのがラヴェンナである。この地は、東ローマ帝国の都コンスタンチノーブルに近い。ローマ帝国滅亡後もイタリアの中心都市であり続けた。6世紀にユスティアヌス帝が地中海再統一した際も、イタリア総督はローマではなくラヴェンナに置かれた。

カロリング朝の成立

 宮宰であったピピンは、メロヴィング朝の国王を追放。自らフランク国王についた。51年のことである。54年に、ローマ教皇がピピンの国王就任を承認。これに応じる形で、56年にピピンの寄進が行われた。

カール=マルテル

イスラム教徒を撃退

 最後に、7世紀初頭のカール=マルテルの時代を見ていきます。カール=マルテルは、カール大帝の祖父で、フランク王国の救済である。

 カール=マルテルの功績は、トゥール=ポワティエ間の戦いでのイスラム教徒の侵攻を撃退したことである。

イスラム教とウマイヤ朝

 8世紀初頭のイスラム教はどのようなものであったのであろうか。イスラム教は7世紀初頭に成立した。当初は選挙でカリフ(イスラム教のトップ)を決めていたが、7世紀半ばにウマイヤ朝が成立。

 アラビア半島で起こったイスラム勢力は、イランのササン朝をほろぼした。さらに、ビザンツ帝国からシリア・エジプト・北アフリカを奪った。

 8世紀に入ると、ジブラルタ海峡をわたり西ヨーロッパに侵入。西ゴード王国(スペイン)を滅ぼした。

 そして、フランク王国(フランス)に侵入。宮宰カール=マルテルに撃退される。

 しかし、イスラム勢力は再びフランク王国(フランス)へ侵入することはなかった。7世紀半ばにアッバース革命が起こったからである。

カロリング家の台頭

 ここで2つの疑問が生じる。カール=マルテルの役職である宮宰とは、なんでしょう。そして、当時のフランク国王はどうなっていたのでしょうか。これは、次回7世紀のドイツ編で見ていきます。