10世紀のドイツ オットーの戴冠と 神聖ローマ帝国の成立

前回の復習 11世紀のドイツ

 10世紀から17世紀にかけてのドイツは、神聖ローマ帝国と呼ばれていた。11世紀の神聖ローマ帝国は、教皇と皇帝が叙任権闘争と呼ばれる。権力闘争が行われた。そのような中で、破門された皇帝が教皇に土下座するカノッサの屈辱という事件は起こった。

 さて、今回は、神聖ローマ帝国成立をしめすオットーの戴冠を見ていきます。オットー1世の時代を見るうえで重要なキーワードは、マジャール人である。サイドストーリーとして、マジャール人との戦いも見ていきます。

オーストリアとハンガリー

マジャール人

 中国の歴代王朝は、北方の騎馬民族の侵攻にたびたび苦しめられた。ヨーロッパの人々も東方の騎馬民族の侵攻に何度も苦しめられた。

 10世紀も、ヨーロッパは、東方の騎馬民族の侵攻を受けた。マジャール人である。ヨーロッパの人々は、東方の騎馬民族のことをフンと呼んでいた。そのため、マジャール人はハンガリー人と呼ばれた。

ハンガリー王国の成立

 マジャール人は、10世紀の半ばの東フランク王国との戦いに敗れた。そのため、マジャール人は、東欧のパンノニア平原に定住するようになった。マジャール人はローマ=カトリックへ改宗。これを受けて、1000年、ローマ教皇はハンガリー王国の成立を認めた。

オストマルク辺境伯

 マジャール人を撃退した神聖ローマ帝国は、マジャール人の侵攻に備えてオストマルク辺境伯を設置した。これが後のオーストリアである。

 辺境伯とは、国境防衛隊の意味である。ドイツ語ではマルクという。オストマルクは、直訳すると東方辺境伯ということになる。辺境伯は、国境の防衛の見返りに土地が与えらえた。それが辺境伯領というとことになる。

オットー1世の戴冠

神聖ローマ帝国の成立

 10世紀のドイツを見るうえで重要な出来事は、オットーの戴冠である。

  戴冠とは、教皇が皇帝に冠を授ける儀式で、ローマ教皇が皇帝すなわちローマ帝国のトップを任命する儀式である。オットーの戴冠は、西フランク王国ではなく東フランク王国がローマ帝国の後継者で会うことを意味した。

 この儀式で、東フランク王国は神聖ローマ帝国となった。しかし、実際の国号として使い始めるのは、12世紀に入ってからのことである。

 では、ローマ教皇は戴冠を行うのであろうか。それはビザンツ皇帝の否定である。ビザンツ皇帝は、東ローマ帝国のトップであるとともに、東方正教会のトップであり、ローマ正教会と主導権争いを行っていた。そのため、ビザンツ皇帝と戦えるローマ皇帝を必要としていたのである。

オットー1世の戴冠

 62年、オットーは、ローマのサン=ピエトロ教会で戴冠を受け、神聖ローマ皇帝オットー1世となった。この戴冠を行ったのは、ローマ教皇ヨハネス12世であった。

 この後、歴代の神聖ローマ皇帝はローマ教皇の戴冠を受けることとなった。つまり、ローマ教皇が皇帝を任命する構図が確立した。これが、叙任権闘争やイタリア遠征の要因となった。

イタリア遠征

 このころ、イタリアの王位は断絶していた。そのため、イタリアは侵略の脅威にさらされていた。イタリア国王の未亡人は、オットーに援軍を求めた。オットーは、この援軍要請に応じ、イタリアへ遠征。イタリアを守った。オットーはイタリアの王女と結婚。オットーは、東フランク国王兼イタリア国王になった。

マジャール人を撃退

 では、ローマ教皇とイタリアは、オットーを頼ったのであろうか。それは、実績があったからである。それがマジャール人の撃退である。

 マジャール人は、10世紀初頭に東欧の西スラヴ人国家のモラヴィア王国を征服。東フランク王国南部へ侵入しては略奪行為を繰り返した。特に影響を受けたのが東フランク南東部にあったザクセン領であった。なお、マジャール人の略奪行為はイタリアやフランス(西フランク王国)にまで及んでいた。

 55年、オットーはマジャール人との戦いに勝利。これにより、マジャール人の略奪行為は収まった。

ザクセン朝の成立

ザクセン朝とは

 現在のザクセン州は、ドイツ南東部の州である。しかし、もともと、サクソン人は北海沿岸で生活していた。しかし、ナポレオン戦争に敗北し、北半分をプロイセン王国に割譲したためである。また、一部のサクソン人は、アングル人ともにイングランドへ渡った。彼らは、アングロサクソン人と呼ばれた。

 サクソン人は、マジャール人の撃退によって、ドイツ南東部に領土を拡大。温暖な南東部へ移住するようになり、中心部が北海沿岸からドイツ南東部へ移った。

 マジャール人退治で名をあげたサクソン族は東フランク国王になる。しかし、力はあっても権威はなかった。この権威付けが、オットーの戴冠につながる。

カロリング朝の滅亡

 カロリング朝は、カール大帝から続く家系である。

 11年、カロリング朝が断絶。当時、西フランク(フランス)はカロリング朝が続いいていた。しかし、東フランクの諸侯は、西フランク王国から王を招かず、同じフランク族のフランケン家が東フランク国王となった。

 カロリング朝が断絶すると、ザクセン家反乱。15年に鎮圧。その後、バイエルンが反乱。東フランク国王はこの反乱で戦死した。

 フランケン家は、バイエルンとの戦いのために新しい国王にザクセン公を指名した。これにより、東フランク国王は、フランク族からザクセン族へ移った。

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