1820年代のドイツ ウィーン体制下のドイツ

ウィーン体制

 19世紀のヨーロッパはナポレオン戦争で始まった。ナポレオン戦争が終結したときに行われたのが、ウィーン会議である。10年代から48年までのヨーロッパの国際関係をウィーン体制という。この外交関係を取り仕切ったのが、オーストリアのメッテルニヒ外相である。

四国同盟と神聖同盟

 ウィーン体制を維持するために、2つの同盟が結成された。神聖同盟と四国同盟である。

 神聖同盟は、ロシアの提唱で締結された同盟である。ウィーン会議に参加したほとんどの国が参加した。宗教的関係から、オスマン帝国とローマ教会は参加しなかった。これは、現在の国際連合の原型といえる。

神聖同盟は、20年代にイタリアのカルナポリの蜂起やスペイン干渉戦争に軍隊を送り一定の成果を上げた。

 しかし、スペイン立憲革命での対応でイギリスが離脱。ギリシャ独立戦争では、開戦派のフランスと消極派のオーストリアが対立。機能不全に陥った。

 一方、四国同盟は、イギリスの提唱で締結された同盟である。イギリス、ロシア、オーストリアとプロイセンの4か国で締結された。18年にフランスが参加して五国同盟になった。現在でいう国際連合の常任理事国といえる存在である。

 五国同盟は、毎年定例会を開いた。しかし、22年のスペイン立憲革命でイギリスとスペインが対立。五国同盟は事実上崩壊した。

ウィーン体制下のオーストリア

 ウィーン会議で、ポーランドとベルギーを放棄、代わりに北イタリアを獲得した。それ以外にも、ハンガリーやベーメン(現在のチェコなどを抱える多民族国家となっていた。

 21年、ウィーン会議で議長を務めたメッテルニヒ外相が宰相兼外相になった。メッテルニヒは、オーストリアの宰相を務める一方で、19世紀前半のヨーロッパ外交を取り仕切った。

 ちなみに、19世紀のヨーロッパは5人の人物で見ていくとわかりやすい。ナポレオン(フランス皇帝)→メッテルニヒ(オーストリア宰相)→ナポレオン三世(フランス皇帝)→ビスマルク(ドイツ皇帝)→ヴェルヘルム2世(ドイツ皇帝)である。

 19世紀前半のオーストリアの政治課題は3つあった。1つは、神聖ローマ帝国の復活である。プロイセンを含めたドイツ連邦をいかにして統一するかが問題であった。

 2つ目は、北イタリア問題である。ウィーン会議で獲得したヴェネツィアなどの北イタリアをめぐり、イタリア(サルディーニャ王国)と対立していく。

 3つ目は、ハンガリーやベーメン(チェコ)などの独立運動である。

 なお、メッテルニヒ宰相は、25年に国会開設を国民に約束した。

ウィーン体制下のプロイセン

 20年代、ドイツはまだ分裂状態にあった。15年のウィーン会議で成立したドイツ連邦が結成されていた。

 議長国をオーストリアとして、プロイセン(ドイツ北東部)、バイエルン(南ドイツの大国)、ザクセン(ドイツ東南部)、ハノーヴァー(ドイツ北西部)などが加盟していた。議会は自由都市であったフランクフルトに置かれた。

 ちなみに、ハノーヴァーはオランダ王室と親交が深く、17世紀初頭にイギリスのスチュアート朝が断絶すると、現在まで続くハノーヴァー朝(ウィンザー朝)を開いた。

 このころ、プロイセンは、ドイツ連邦でNo2の地位を獲得すると同時に、五国同盟(四国同盟)の加盟国としてヨーロッパの大国としての地位を歩み始めた。

 23年、地方会議を招集。28年、プロイセン関税同盟、中部関税同盟、南ドイツ関税同盟を結成。

 当時のドイツ連邦は、産業革命前の農業国であった。特にドイツの商工業者は、イギリスの安い工業製品に苦しんでいた。

20年代の国際情勢

スペイン立憲革命

 スペインは、ウィーン会議によって、ブルボン朝が復活した。スペイン=ブルボン家は、フランス=ブルボン家と親戚関係にある。復活したスペイン=ブルボン家を悩ませていたのが、ラテンアメリカの独立運動であった。

 20年、ラテンアメリカの独立運動鎮圧のために、海軍を派遣しようとした。ところが、その海軍が反乱を起こした。これがスペイン立憲革命の始まりである。スペイン海軍は、ナポレオン帝政時代に制定された憲法の復活を要求した。

 スペイン=ブルボン家は、フランス=ブルボン家に応援を要請した。フランス=ブルボン家は、スペインへ軍隊を派遣するとともに、五国同盟に応援を要請した。この結果23年にはスペイン立憲革命は鎮圧された。しかし、この影響は大きかった。

 スペインの混乱によって、ラテンアメリカの独立は加速。スペインはラテンアメリカの植民地を失った。

 一方、五国同盟では、イギリスがスペイン立憲革命への干渉に反発。五国同盟と神聖同盟から離脱した。ここから、イギリスの「光栄なる孤立」が始まった。

 スペイン立憲革命は北イタリアへ波及した。オーストリア領の北イタリアでカルナポリの蜂起が発生した。

ギリシャ独立戦争

 21年、オスマン帝国領のギリシャで独立戦争が勃発した。バルカン半島やエジプトへ進出したいイギリス、フランスとロシアが支援。30年ギリシャの独立は承認された。オスマン帝国の衰退は、ここから本格化した。

 オーストリアのメッテルニヒ宰相は、一貫してこの戦争への干渉は消極的であった。その理由は、オーストリア領ハンガリーへ波及を恐れたためである。当時のオーストリアは、スペイン立憲革命から波及した北イタリアの反乱に苦しんでいた。メッテルニヒの反対により、五国同盟としてギリシャ独立戦争への介入は起こらなかった。これにより、五国同盟は崩壊した。

ベートーヴェン

 この時期、文化の中心はウィーンであった。その中心人物はベートーヴェンであった。24年には「第九」を発表。しかし、27年ベートーヴェンは亡くなった。

 このころになると、文化の担い手は王室(宮廷)から富裕層(市民)へ移っていった。また、文化が市民革命やナショナリズムの構築を促進させた。

 プロイセンでは、科学者オームがオームの法則を発見した。