1840年代のドイツ 48年革命と フランクフルト国民議会

フランクフルト国民議会

 48年5月、ドイツ統一に向けての議会が開かれた。フランクフルト国民議会である。目的は、ドイツ統一と憲法制定である。この会議で問題になったのは2点である。1つ目は共和政か立憲君主制か。2つ目は、ドイツの範囲である。ドイツの範囲については、オーストリアを含めた大ドイツ主義と、オーストリアを除いてプロイセンを中心としたドイツをめざす小ドイツ主義があった。

 フランクフルト国民議会では、小ドイツ主義の立憲君主制でドイツ憲法を決議した。しかし、国王の権限が低いことでプロイセン国王が承認せず、この憲法は施行されなかった。

三月革命

フランス二月革命

 19世紀前半は市民革命の時代であった。その始まりは常にフランスであった。48年2月、フランスで七月王政が倒れ、第三共和制へ移行した。この事件を二月革命という。

ベルリン三月革命

 二月革命は、プロイセンへも波及した。ベルリンでも市民革命の動きが出た。プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、憲法制定を約束した。国王に感謝するデモが王宮前に集まった。これに対し、軍隊が銃声を鳴らす。平和ムードの王宮前は突如紫外線になった。国王は屈服。ブルジョワ(資本家)を中心とした内閣が発足した。

ウィーン三月革命

 同じ頃、ウィーンでも市民革命が勃発。メッテルニヒが亡命、オーストリア皇帝フィルディナント1世が憲法を約束し、三月革命はようやく終結した。

 メッテルニヒの失脚によって、ヨーロッパ外交の中心はメッテルニヒ(オーストリア)から、パーマストン(イギリス)とナポレオン3世(フランス)に代わった。

諸国民の春

 ウィーン三月革命がおこると、オーストリア支配下のハンガリー人やベーメン(チェコ)人が独立に向けて動き出した。また、オーストリア領北イタリアでも独立運動が起きた。

 これらの諸国民の春は、ロシアの援軍を使って鎮圧した。