1880年代のドイツ ビスマルク外交と アフリカ分割

ヴィルヘルム2世の即位

 88年、ヴィルヘルム2世が即位した。若き皇帝ヴィルヘルム2世は、老齢の宰相ビスマルクと対立した。2人の関係が完全にこじれたのは、社会主義者鎮圧法の延長問題であった。ビスマルクは、ヴィルヘルム2世に社会主義者鎮圧法の延長を求めた。しかし、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これにより、90年ビスマルクは引退した。

 ヴィルヘルム2世は、ビスマルクを引退させると内政と外交でそれぞれ大きな転換をした。内政では社会主義者鎮圧法を廃止した。外交では、ロシアとの再保障条約の更新を拒否した。

 この2つの政策転換によって、1910年代ヴィルヘルム2世は、ドイツを追われることになる。まず、ロシアとの再保障条約の更新を取りやめると、90年代に露仏同盟が成立。10年代の第一次世界大戦では、フランス、ロシアとイギリスを相手に戦うことになった。そして、第一次世界大戦を終わらせたのは、社会主義者鎮圧法の復活で力をつけたドイツ社会民主党左派(後のドイツ共産党)であった。

 しかし、ヴィルヘルム2世とビスマルクの対立を世代間抗争で片づけてはいけない。これはドイツ経済が大きく転換したことの象徴でもあった。ビスマルクは農村出身である。ビスマルクのような農村出身の貴族をユンカーと呼んだ。ドイツ建国当時は、ユンカーが政治の中心であった。

 ユンカーたちは、イギリスなどの工業国に農産物を売り、安価なイギリス製工業製品で快適な生活を送っていた。そのため、外交面では親英、親露政策となっていた。

 しかし、ドイツは産業革命を果たし、イギリス製品と戦える工業製品が育ち始めた。これにともない都市の人口(資本家+労働者)の人口は急激に伸びた。これにともないユンカーの発言力は低下した。その象徴がビスマルクの引退になる。

ロシアと再保障条約

 さて、ここからビスマルクの外交を見ていきます。最初に見るのは、ロシアとの関係である。

 ロシアの外交政策は、南下政策である。すなわち、不凍港の獲得にあった。ヨーロッパでは、バルカン半島を突き抜けて父誘拐に出るルートを模索していた。

 70年代のベルリン会議で、ロシアは地中海進出が一旦遠のいた。ビスマルクはこの時、最悪のシナリオを想定していた。露仏同盟の成立である。露仏同盟が成立すると、ドイツは、ロシアとフランスに挟み撃ちに合うことになる。実際に第一次世界大戦ではそうなった。

 これを防止するため、ビスマルクは、81年オーストリアとロシア、ドイツで三帝同盟を復活させた。しかし、オーストリアとロシアは、バルカン半島問題で対立をしていた。そして、87年、三帝同盟は再び消滅した。

 ドイツとオーストリアは、三国同盟を結成していたので有効な関係が続いていた。一方で、三帝同盟の解消でロシアとの同盟関係は完全になくなった。

 ドイツは、ロシアとフランスが結び付くことを恐れた。一方で、ロシアは、イギリスとのグレートゲームがまだ続いていた。そのような最中にドイツがイギリスと連携して侵攻することを恐れていた。そのため、ビスマルクはロシアと秘密裏に再保障条約を締結した。

ベルリン=コンゴ会議

 次に、ビスマルク外交をイギリスとの関係で見ていきます。イギリスはユンカーたちにとって大得意先である。一方で、イギリスとロシアはグレートゲームで敵対関係にあった。そのため、ビスマルク外交は、イギリスとロシアと友好的にふるまうと同時に、中立性を維持しなくてはならなかった。

 さて、そのような80年代、事件が起きた。84年、ベルギーがアフリカ内陸部のコンゴの植民地化を進めていた。これにアフリカ進出に野心を持っているイギリスなどが反発した。ビスマルクはヨーロッパの首脳を再び集めた。これがベルリン=コンゴ会議である。

 ビスマルク自身は、ロシアに関係のないアフリカ問題であるから、イギリスの意見を尊重すればよかった。しかし、これをそのまま認められない状況があった。ドイツの資本家(ブルジョワ)の台頭である。40年代から始まった産業革命でドイツの工業力はイギリスに匹敵するほどに成長していた。彼らは海外市場を求め始めていた。

 ベルリン=コンゴ会議では、ベルギーのコンゴ支配が承認された。さらに、アフリカ分割にルールが作られた。それが先占権の考えである。すなわち、最初に実効支配した国の植民地化を他国は承認するというものである。単純に言えば早い者勝ちである。これにより、アフリカ分割は急速に進んだ。一方で、80年代アフリカ分割が原因の戦争も起こらなかった。

 最後に、ビスマルクの植民地政策を見ていきます。ビスマルクはイギリスと対立しないようにまだ植民地化されていないエリアへ進出した。アフリカではヨーロッパから遠いアフリカ南部を、アジア地域は植民地化できなかったのでフィリピンからさらに西へ行った東太平洋の島々に進出した。これらの地域は南洋諸島と呼ばれた。現在でもその時の名残があり、ビスマルク諸島やビスマルク海が存在する。

三国同盟

 最後に、オーストリアなどの中欧諸国との関係を見ていきます。

 78年の露土戦争で、ヨーロッパ外交関係は一度リセットされた。ビスマルクはこの外交関係の再構築に向かった。

 79年、オーストリアと独墺同盟を締結した。さらに、ロシアとの関係を改善し、81年、三帝同盟を復活させた。チュニジア問題でイタリアがフランスと対立。82年、イタリアとオーストリアの三国同盟が成立した。

伊藤博文が見たドイツ

 この頃、ヨーロッパに日本の有力政治家が訪れていた。伊藤博文である。81年、日本で国会開設の詔が発布された。伊藤博文はこれを受けてヨーロッパへ憲法調査のために訪れた。

 当時の日本は、清王朝が衰退する中でいかにヨーロッパ諸国から独立を保つかが政治課題であった。そのような中で、イギリスとロシアの2つの強国の中でヨーロッパを仕切るビスマルクを伊藤博文はどのように見たであろうか。

 伊藤博文は、ドイツ憲法をベースに大日本帝国憲法を作った。