18世紀後半のドイツ 七年戦争とポーランド分割

フランス革命

 18世紀末のヨーロッパはフランス革命の真っただ中にあった。フランス革命はこれまで様々な角度で見てきた。今回は外交と戦争の視点から見ていきます。

 まず、フランス革命前のヨーロッパの外交関係ですが、オーストリア=ハプスブルク家とフランス=ブルボン家は外交革命で同盟関係にあった。ルイ16世の妻マリーアントワネットは、マリアテレジアの娘である。

 フランス革命は、89年7月のバスティーユ監獄襲撃事件で始まった。同89年10月のヴェルサイユ行進で、フランス王室はヴェルサイユからパリに移された。危機感を持ったマリーアントワネットは実家のオーストリア=ハプスブルク家に支援を求めた。

 91年6月、ルイ16世がオーストリアへの亡命を計画するも失敗(ヴァレンヌ逃亡事件)。同91年8月、オーストリア皇帝レオポルト2世(マリーアントワネットの兄)とプロイセン王フリードリヒヴェルヘルム2世が会合。フランス革命政府を非難し、フランス=ブルボン家の復活を要求した(ピルニッツ宣言)。当時のオーストリアにはフランスから多数の貴族が亡命していた。

 この時期のフランス革命政府の中心勢力は、ジロンド派(穏健共和派)である。彼らは2つの野党に苦しんでいた。王党派とジャコバン派(急進共和派)である。ジロンド派は国をまとめるために戦争を利用した。翌92年3月、フランス革命政府はオーストリアに亡命貴族の返還を求める最後通牒を送った。翌4月、革命政府議会はオーストリアへの宣戦布告を決議した。ルイ16世もこれを承認した。革命政府は、プロイセン王国が中立な立場をとり、勝利すると予測した。また、ルイ16世はオーストリアが処理し、王政復古が実現すると予測していた。しかし、プロイセン王国はオーストリア側で参戦。フランス革命政府軍vsオーストリア・プロイセン連合軍との構図となった。

 フランス革命軍の主力は、特権を失った旧貴族出身者であった。そのため、士気は高まらなかった。そのため、フランスの劣勢の状態がつづき、ついにパリはオーストリア・プロイセン連合軍によって占領された。

 92年7月、革命政府はフランス各地に義勇兵を募集した。これに応じて多くの義勇兵が集まった。翌8月、義勇兵がパリの宮殿に侵入。王権を停止した。翌9月、フランスの義勇兵はヴェルシーの戦いで、オーストリア・プロイセン・フランス亡命貴族連合軍に勝利した。

 同92年11月、フランス義勇兵はオーストリア領ベルギーへ侵攻した。これはイギリスへ警戒感を与えた。年が変わって93年1月、フランス国王ルイ16世を処刑。イギリスは、フランス向けの輸出を禁止した。フランス革命政府は、イギリス・オランダに宣戦布告。

 イギリスは、フランスの宣戦布告を受けて、第1次対仏大同盟を結成した。オーストリアとプロイセンはこの対仏大同盟に参加した。

 97年10月、オーストリアはナポレオンに降伏。第1回対仏大同盟はここに終結した。

ポーランド分割

第1回ポーランド分割

 72年、オーストリアとプロイセン、ロシアは、ポーランドに領土を要求。ポーランドはなすすべもなくこの要求を受け入れた。これがポーランド分割の始まりである。

第2回ポーランド分割

 92年9月、ヴェルシーの戦いでオーストリアとプロイセンは敗北。プロイセンは対仏大同盟への参加に対して二の足を踏んでいた。

 ロシアは、プロイセンに対してポーランドの領土割譲を条件に第1回対仏大同盟へ参加を約束させた。

第3回ポーランド分割

 95年、コシューシコが蜂起。ロシアは、オーストリアとプロイセンに協力を要請。コシューシコの蜂起は鎮圧。ポーランドの残りの領土がロシア、オーストリア、プロイセンで分割。ポーランドは消滅した。

七年戦争

外交革命

オーストリアのマリアテレジアは激怒した。オーストリア継承戦争で工業地帯のシュレジエンをプロイセンに奪われたからである。

マリアテレジアは、復讐戦のために新たな同盟を結んだ。その相手は長年の宿敵であるフランス=ブルボン家である。同盟を強固なものにするため、マリアテレジアの娘であるマリー=アントワネットとフランスの次期国王であるルイ16世が結婚した。

 オーストリアは、フランス・ロシアと同盟を締結。56年、七年戦争が勃発した。

ロシアの裏切り

 七年戦争は、初戦はプロイセンが優勢に勧めていた。しかし、59年に戦況は反転した。一時、ベルリンは占領された。プロイセン国王フリードリヒ2世は自殺を検討したほどであった。

 しかし、奇跡が起きた。62年、ロシア軍が突如撤退したからである。その理由は、ロシアの女王エリザヴェータの死である。新国王となったのはピョートル3世である。ピョートル3世はフリードリヒ2世をそんけいしており、プロイセンを突如支援した。勝利間近の状態でのてっぺいにロシアの軍隊は激怒。ピョートル3世は翌64年に廃位。エカチェリーナ2世が即位した。

 しかし、この混乱は大きく戦局を動かした。さらに、フランスはアメリカとインドでイギリスに劣勢。戦争を継続することができなくこう渡した。

結果

 プロイセン王国は、シュレジエンを死守した。この結果、プロイセンは大国と認識され、オーストリアとドイツの主導権争いを行うことになった。