1910年代のドイツ 第一次世界大戦に敗北

 1910年代、世界は第一次世界大戦の真っただ中にあった。ドイツはこの戦争に敗北。すべての海外植民地を失い、経済が壊滅するほどの賠償金を課された。

 今回は、前半で第一次世界大戦の過程を、後半で第一次世界大戦の各国の思惑である。

ヴェルサイユ条約

概要

 19年、フランスのパリで講和会議を実施。6月にヴェルサイユ講和条約を締結した。調印式が行われたの、ドイツの建国を宣言したヴェルサイユ宮殿の鏡の間であった。講和条約は以下のとおりであった。

国際連盟の結成

 国際連盟は、アメリカのウィルソンの提唱で国際平和の維持のために結成された国際組織である。本部はスイスのジュネーブに置かれた。

 ドイツなど敗戦国は、当初参加できなかった。ソ連もこれには加盟しなかった。さらに、アメリカはモンロー主義の観点から議会の承認が得られず不参加となった。そのため、多くの強国が参加しなかったため、国際連盟の影響力はそれほど大きくなかった。

 当初の常任理事国は、第1次世界大戦の戦勝国で構成された。イギリス、フランス、イタリアそして日本である。

海外植民地の放棄

 ドイツは、すべての海外植民地を放棄した。アフリカの植民地は、イギリスとフランスで、太平洋の植民地はイギリスと日本で分割統治された。

 中国権益をめぐって、日本と中華民国(袁世凱政権)が対立。日本がこの兼営を獲得した。

領土の割譲

 フランスには、アルザスロレーヌを割譲した。この地域は地下資源が豊富な地域で仏独で争いを続けていた。第二次世界大戦後はこの地域の共同管理のためにヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。

 東隣のポーランドには、ポーランド回廊を割譲した。ポーランド回廊とは、ポーランドとバルト海を結ぶ細長い以地域で、これによりドイツはドイツ本土と東プロイセンに分断された。30年代、ヒトラーはこの地をポーランドに要求。ポーランドがこれを拒否したために第二次世界大戦につながった。

軍備の制限

 徴兵制を廃し、ドイツ国内のフランス国境付近のラインラントの非武装化(軍隊を置かない)ことした。

 これは、36年にフランスが仏ソ相互援助条約を締結した際に、ヒトラーがラインラント駐屯を再開した。

賠償金問題

 19年のヴェルサイユ条約でドイツに賠償金の支払いが命じられた。しかし、金額はここでは示されなかった。

 21年に賠償金の金額が1320億金マルクとされた。これは当時のドイツのGNP(国民総生産)の20倍であった。イギリスの経済学者ケインズは、ドイツは経済破綻すると予言した。その予言通り、ドイツはすぐに支払い不能になった。

 では、なぜここまで賠償金の金額が高額になったのだろうか。それは、イギリスとフランスが莫大な債務に追われていたからである。この国債を保有していたのがドイツである。

第一次世界大戦

ドイツ共産党の反乱で敗北

 第一次世界大戦は4年以上かかった総力戦であった。17年にはアメリカの参戦でドイツは劣勢に立たされた。翌18年に入ると国民の間にも戦争に対する疲労が見え始めた。

 18年11月3日、キール軍港で水兵は反乱を起こした。この反乱は瞬く間にドイツ全体を広がった。これがドイツ革命である。これを指揮したのが社会民主党左派の人々であった。彼らは当時スパルタクス団と名乗った。ちなみに社会民主党左派は後にドイツ共産党になる。

 これをうけて、社会民主党は、戦争の中止とドイツ皇帝の廃位を求めた。それまで、社会民主党は皇帝を支持し、戦争に協力的であった。同11月9日、社会民主党エーベルトはドイツ共和国を建国。エーベルトは首相になった。これにより、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世は、オランダに亡命した。11日、エーベルト首相は停戦に合意した。

 翌19年1月、社会民主党左派は、ドイツ共産党を結成。ソ連のような共産化を目論んだ。しかし、これは失敗した。

 翌2月、ヴァイマール憲法を制定。社会民主党エーベルト首相のヴァイマール共和国として、ドイツは再スタートを切った。 

ロシア革命

 アメリカが参戦(17年4月)の直前の3月、ロシアで大きな動きがあった。ロシア革命の始まりである二月革命(3月はロシア暦で2月)である。この革命でロシア皇帝ニコライ1世一族は処刑された。

 ヴェルヘルム2世は戦争を優位に進めるため亡命中のレーニンをモスクワへ送った。

 11月、十月革命でレーニンらによるソ連が建国した。レーニンは、「平和に関する布告」を発表。ソ連は無条件で各国と停戦した。「平和に関する布告」は民族自決の原則も書かれていたので、オーストリアやオスマン帝国の支配下にいる多くの諸民族がこれを支持した。

 翌19年1月、アメリカの一般教書演説では、この情勢を受けて「ウィルソンの平和十四か条」が発表された。

アメリカの参戦

 今では考えられないことだが、アメリカは基本的には戦争に消極的であった。

 15年2月、膠着する戦況を打破するため、ドイツは無制限潜水艦作戦を開始した。これはナポレオン戦争時の大陸封鎖令に当たる。イギリスに入る商船を潜水艦で無制限に攻撃し、イギリスに食糧が入らないようにした。

 15年5月、ドイツの潜水艦がイギリス商船を撃沈。これにより多くのアメリカ人が犠牲になった。アメリカ国民はこれを大いに非難した。アメリカの非難を受けて、ドイツは潜水艦による無差別攻撃をやめた。

 17年2月、無制限潜水艦作戦を再開した。これを受けて、4月にアメリカはドイツに参戦を表明した。

膠着する戦況

 開戦当初は、どの国も第一次世界大戦が泥沼化すると思っていなかった。しかし、戦争は膠着化、長期戦になった。

 西部戦線(対フランス)では、14年9月のマルヌの戦い以降、ドイツとフランスのにらみ合いが続いた。これ以降、両軍は塹壕をつくりその中でにらみ合いを続けた。15年4月のイーブルの戦いでは毒ガスが初めて利用された。

 西部戦線の様子は、映画『西部戦線異状なし』に描かれている。

 一方で、東部戦線(対ロシア戦)は、圧勝であった。14年8月のタンネンベルクの戦いはその一例である。

きっかけは、バルカン問題

 第一次世界大戦は、14年6月のサラエボ事件であった。サラエボ事件とは、サラエボで、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺された事件である。サラエボは、ボスニアヘルツェゴビナの都市である。この地域は08年にオーストリアに併合された。セルビアとはこの地域の支配をめぐり、オーストリアと争っていた。

 サラエボ事件が起こると、オーストリアがセルビアに宣戦布告。これに対し、ロシアがオーストリアに宣戦布告。これにより、大国の大部分がこの戦争に参加することになった。

ドイツ陣営の国々

オーストリアとバルカン情勢

オーストリア=ハンガリー帝国

 オーストリアは、神聖ローマ皇帝を務めるハプスブルク家が治める国である。元々はドイツ人国家であるが、ハンガリー人や地チェック人などを抱える多民族国家であった。

 20世紀初頭では、かつての勢いはなく、他の民族にある程度の自治権を与えていた。そのため、当時はオーストリア=ハンガリー帝国と呼ばれていた。

第一次世界大戦前のバルカン半島

 オーストリアは、バルカン半島進出に力を入れていた。08年にボスニアヘルツェゴビナを併合した。これに反発したのがセルビアとロシアである。12年、セルビアは周辺国とともにバルカン同盟を結成。ロシアはこれを支援した。同12年、バルカン同盟は、第1次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利。領土を拡大した。しかし、領土の分割でもめて、ブルガリアが離脱。第2次バルカン戦争となった。

オスマン帝国と3B政策

3B政策

 オスマン帝国は西アジア強国であった。しかし、19世紀は衰退の一途をたどっていた。そのため、支援をしてくれる国が欲しかった。

 一方、ドイツ帝国は帝国主義競争に出遅れていた。そのため、ドイツの海外植民地はヨーロッパから遠い地域に多い。そのため、ベルリンから直接いけるアジアの拠点が欲しかった。その理にかなったのがオスマン帝国であった。

 ドイツ皇帝はヴェルヘルム2世は、ベルリンからイスタンブール(ビザンティウム)と、バグダードをとおりペルシャ湾へ抜ける鉄道を作ろうとした。これが3B政策である。この鉄道が完成すると、ドイツの工業品をインド洋(アジア)まで運ぶことが可能になる。

 これに反発する国が2つあった。ロシアとイギリスである。ロシアは、バルカン半島を通って地中海に出たいと考えていた。そのためバルカン半島をドイツ勢力にとられたくなかった。また、イギリスは、3C政策で、インドとエジプトをつなごうとしていた。その間にあるのがバグダート(イラク)であった。

袋叩きのオスマン帝国

 話をオスマン帝国へ戻す。オスマン帝国は、08年に青年トルコ革命が発生。これにより、国内は混乱した。

 それに乗じてバルカン半島へ周辺諸国が侵攻していた。オーストリアはボスニアヘルツェゴビナを併合。イタリアもバルカン半島へ侵攻(イタリア=トルコ戦争)。そして、12年のバルカン戦争である。

 アラビア人の独立運動も活発化していた。これを裏で支援していたのがイギリスであった。

イギリス陣営

イギリスと建艦競争

 20世紀初頭のイギリスは、広大な海外植民地を持つ大英帝国であった。それを支えたのが最強の海軍であった。

 ヴェルヘルム2世は、海外植民地を獲得するため、急ピッチに海軍を増強した。ドイツは、このときには産業革命が終わり、地下資源が豊富なため、鉄鋼業が盛んになった。そのため、あっという間にイギリスを脅かす海軍力を持つようになった。

 イギリスは、ドイツに対抗するため、ドイツの2倍の海軍力を持つことを目標にした。これが「二国標準」である。これにより、イギリスの海軍予算は膨張。大量の国債を発行することになった。

 第一次世界大戦が終結すると、イギリスはアメリカ資本なくてやっていけなくなった。賠償金の金額が莫大になったのも子の影響である。この反省から、20年代には頻繁に海軍軍縮交渉が始まった。

フランスとモロッコ事件

ドイツとアフリカ分割

 ドイツは植民地獲得競争に出遅れた。80年代のビスマルクい時代は、英仏との衝突を避けるため協調しながら植民地獲得を混ざした。そのため、アフリカ南部に集中している。アフリカのドイツ植民地は以下のとおりである。

  • 西アフリカのトーゴとカメルーン
  • ドイツ領東アフリカ→現在のタンザニア
  • 南西アフリカ→現在のナミビア

 これらの地域はヴェルサイユ条約ですべて放棄した。トーゴとカメルーンは、英仏で分割された。東アフリカ(タンザニア)は、イギリスとベルギー(コンゴ)で分割された。南西アフリカ(ナミビア)は、イギリス領南アフリカに併合ざれた。

モロッコ事件

 20世紀に入ると、ドイツはアフリカの北西にあるモロッコに関心を高める。そのため、モロッコをめぐり、ドイツはフランスと対立するようになる。

 05年、第一次モロッコ事件が発生。イギリスがフランス支援に回ったため、フランスのモロッコでの優越権が認められた。

 11年、モロッコで内乱が始まると、フランスが軍事介入した。これに対し、ドイツも軍艦を派遣した。あわや戦争の直前までに至った。しかし、イギリスがフランスの支援を表明。ドイツは矛を収めた。

 フランスとドイツは協議し、ドイツはフランス領コンゴの一部の割譲をうけて、フランスのモロッコ保護国化を認めた。 

ロシアとバルカン同盟

 ロシアのヨーロッパでの政策は首尾一貫している。バルカン半島で影響力を高め、バルカン半島経由で地中海へ進出することである。それを妨害していたのが東地中海のエジプトを植民地に持つイギリスであった。

 しかし、ドイツの3B政策で状況を一変した。ドイツの3B政策に抵抗する観点で利害が一致。英露協商が結ばれた。

 オーストリアがボスニアヘルツェゴビナを併合すると、セル日はロシアに支援を求めた。そして結成されたのがバルカン同盟である。

日本と山東半島

アジア・太平洋の植民地化

 ドイツは帝国主義競争に出遅れた。しかし、東アジア、太平洋地域についてはそのデメリットはなかった。

 90年代の中国分割の際には、山東半島を獲得。しかし、中国の中心部を獲得したことで00年代の義和団の乱では相当な被害を受けた。

 一方、太平洋地域では、東太平洋の中央部南洋諸島を植民地化した。

日本と第一次世界大戦

 日本は、90年代以降10年おきに戦争に勝利した。90年代の日清戦争。00年代の日露戦争、10年代の第一次世界大戦である。

 第一次世界大戦では、日英同盟に基づいてイギリス陣営で参加した。日本海軍は、地中海まで軍艦を派遣していた。しかし、主力部隊は、アジア太平洋地域のドイツ植民地の獲得であった。

 いっぽうで、日本は、軍需で輸出が拡大した。さらに、ヨーロッパからアジア向けの輸出が止まると、日本製品がアジア地域で売れるようになった。これにより、日本は大戦景気に沸いた。しかし、大戦が終結すると輸出が激減。関東大震災をきっかけに不況に入る。

ヴェルサイユ条約と山東半島

 ヴェルサイユ条約では、山東半島の権益をめぐり、中華民国と日本が対立したが、日本が山東半島の権益を獲得した。一方南洋諸島は。日本とイギリス(オーストラリア)で分割された。

イタリアの裏切り

イギリス陣営で参戦

 イタリアは、ドイツ、オーストリアとともに三国同盟を形成していた。しかし、14年に第一次世界大戦が始まると中立を宣言。翌15年には、イギリス陣営で参戦した。

未回収のイタリア

 では、なぜイタリアはドイツを裏切ったのだろうか。それは未回収のイタリア問題であった。イタリアとオーストリアの間には国境紛争があった。イギリスは、密約でその領土を約束していた。その結果、イタリアはイギリス陣営で戦うことになった。