1940年代前半のドイツ 冷戦1R ベルリン封鎖

第二次世界大戦直後のヨーロッパ

 45年5月のベルリン陥落で第二次世界大戦は終結した。第二次世界大戦が終結すると、東欧諸国で次々と親ソ政権が誕生した。ソ連の影響力は東欧諸国だけにとどまらず、西欧諸国にまで広がった。フランスやイタリアで共産党が躍進した。また、イギリスは、第二次世界大戦の英雄である保守党チャーチルが総選挙で敗北。アトリー労働党政権が誕生した。

 47年3月、共産党と王党派が内戦中のギリシャに対して、アメリカが介入すると発表した。これがトルーマン=ドクトリンである。また、ヨーロッパが共産化しないように、47年6月にアメリカのヨーロッパ復興計画が発表された。これがマーシャル=プランである。ここにソ連とアメリカの冷戦の構図が明確になった。

ドイツの統治

 ドイツは、45年5月に降伏した。米ソ英仏は、45年2月のヤルタ協定に基づいて、四か国の分割統治を行った。西側は、井木リリス、アメリカとフランスが、東側をソ連が担当した。ベルリンは、ドイツの東部にあるがここは別途、米ソ英仏でさらに四か国が分割統治を行った。ベルリンの米英仏の管理地域のことを西ベルリンという。余談だが、この時、アメリカ軍の司令官としてドイツに入ったのが、後のアイゼンハワー大統領である。

 ドイツは、将来統一ドイツとして主権を回復することが想定された。そのため、四か国共同管理理事会を設置した。

チェコスロヴァキアで親ソ政権

 48年に入ると、西欧諸国はアメリカ陣営。東側諸国はソ連陣営と色分けがくっきりし始めた。しかし、どちらの色に染まっていない地域が存在した。ナチスドイツの支配下にあった中欧である。具体的には、ドイツ、オーストリア、そしてチェコスロヴァキアである。

 48年2月、チェコスロヴァキアで共産党によるクーデターが発生した。これにより、中欧に共産党政権が誕生した。

ベルリン封鎖

 米英仏は、48年6月に四か国共同管理理事会を無視して通貨改革を断行した。通貨改革とは、新通貨を導入するとともに自由な経済活動を認める政策である。これにより、ドイツ西部の経済は自由化された。一方、ドイツ東部は統制経済が続いていた。

 ソ連は、通貨改革に反発。同6月、飛び地である西ベルリンの経済封鎖に踏み切った。これがベルリン封鎖である。

 米英仏は、西ベルリンへ飛行機を飛ばし物資を供給した。大空輸作戦である。

西ドイツと東ドイツ

 米ソ英仏の協議の結果、49年5月にベルリン封鎖は解除された。西ベルリンには米英仏の軍隊が駐屯するようになった。

 ベルリン封鎖が解除された同じ5月、西ドイツが成立した。8月の総選挙では、社会民主党(SPD)をおさえて、キリスト教民主同盟(CDU)が第1党になった。キリスト教民主同盟のアデナウアーが初代首相になった。

 一方、東ドイツも10月に成立した。ソ連系の共産党とドイツ古来の社会民主党が合同し、社会主義統一党を結党した。

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