第2次ベルリン問題
経済格差
50年代かけて、東ドイツと西ドイツの間に大きな経済格差が生じた。
西ドイツは、朝鮮戦争やインドシナ独立戦争などの経済特需で急速に景気回復した。これは奇跡の経済復興と呼ばれた。一方、東ドイツは、貧困と強制労働で苦しんでいた。そのため、東ドイツから西ドイツへの逃亡者が続出した。
雪解けの終焉
56年2月、ソ連のフルシチョフ書記長はスターリン批判を行った。対米協調路線が続いた。57年10月、ソ連は人工衛星の打ち上げに成功。フルシチョフ書記長は強気の外交を行うようになった。
米ソ首脳会談
59年、フルシチョフ書記長はアメリカを訪問。冷戦終結に向けた交渉が始まった。その中には米英仏の西ベルリンからの撤兵もあった。
主権回復
53年6月、東ドイツで反ソ暴動。これを受けて、翌54年8月にソ連は東ドイツの主権回復を承認した。西ドイツは、同54年10月に主権を回復。再軍備が認められ、アメリカ側の軍事同盟NATOに加盟した。翌55年10月ソ連は西ドイツの再軍備に対抗するためワルシャワ条約機構を発足。
ECSC
アルザスロレーヌ問題
51年4月、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。その目的は、西ドイツとフランスのアルザスロレーヌ地方の共同管理である。両国はアルザスロレーヌ地方をめぐり何度も戦争を繰り返した。それはアルザスロレーヌ地方は豊富な地下資源があったからである
EEC
フランスは57年に第二次中東戦争に敗北。スエズ運河を失った。これに呼応するかのように北アフリカのアルジェリアで独立運動が起きた。フランス今までのような植民地を利用した経済復興はできないことを自覚した。
新たな市場として注目したのが西ドイツである。フランスと西ドイツなど大陸6か国は57年にヨーロッパ経済共同体(EEC)が発足した。
EFTA
一方、イギリスはEECに対抗するために、59年にヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を発足させた。オーストリアはEFTAに加盟した。