2世紀のイタリア 五賢帝時代

前回の復習 3世紀のイタリア

 3世紀のイタリアは、ローマ帝国の時代である。3世紀は「3世紀の危機」と呼ばれる衰退期に当たる。

 2世紀のイタリアは、ローマ帝国の最盛期にあたる五賢帝の時代を見ていきます。

五賢帝時代とは

 五賢帝とは、ローマ帝国の全盛期の5人の皇帝である。

 この時代は、政局が比較的に安定していた。その理由は皇帝の決め方にあった。ローマの皇帝は、中華皇帝とは違い、実際は世襲ではない。前皇帝が、実力者を次期皇帝として養子にした。

 五賢帝時代以前は、元老院と皇帝が対立することもしばしばあった。しかし、五賢帝時代に入ると、元老院の承認を得たものが皇帝に選ばれるようになった。

五賢帝時代はなぜ終わったのか

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は、後継者に実の息子を指名した。

 80年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は、ゲルマン民族との戦争で戦士した。次の皇帝は、軍人の反対を押し切ってゲルマン民族と講和した。

 ここから、軍人と皇帝の対立が生じ、3世紀の軍人皇帝の時代へと向かっていく。

 軍人皇帝時代へ向かう理由は、他にもあった。元老院の弱体化である。元老院とは、貴族によって構成される議会で、事実上のローマ帝国の最高意思決定機関である。任期は終身であった。ローマ帝国の要職も元老院議員が担った。

 しかし、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時代になると、多くの元老院議員が戦死。騎士(平民の有力者)や属州(ローマ以外)出身者が元老院議員に就任。彼らが政治の中枢を担うようになった。

哲人皇帝 マルクス=アウレリウス=アントニヌス

 60年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が即位した。40歳の高齢での皇帝就任である。出身はスペインである。ストア派の哲学者で、哲人皇帝と呼ばれた。

 ストア派は、紀元前3世紀のヘレニズム時代のギリシャに成立した。感情を制して、確固たる自己の確立を目指す思想である。ストイック(禁欲主義)の語源にもなった。マルクス帝も『自省録』を著した。

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時代は、暗黒の時代であった。パルティア(イラン)やゲルマン民族との戦闘。疫病の流行などの災難が続いた。<疫病は、海外遠征を行った軍人によって広まったと言われている。>

 マルクス帝の時代には、元老院議員が大きく変わった。元老院は、ローマの貴族が世代交代しながら存続した。しかし、疫病の流行で多くのローマ貴族がお家断絶。代わりに、騎士(平民の有力者)や、属州(ローマ以外)出身者が元老院議員になった。

良の皇帝 アントニンヌス

 38年、アントニヌス帝が即位。60年まで皇帝を努めた。属州南フランス出身である。ハドリアヌス帝の後継者はことごとく死亡。50歳の高齢な皇帝が選ばれた。

 大きな功績はあまりない。その理由は、元老院と良好な関係を築いたことと、比較的平和な時代であったことを示している。

 60年に、アントニヌス帝がなくなると、元老院は最良の皇帝としてピウスの諡(おくりな)をつけた。

守の皇帝 ハドリアヌス

 14年、ハドリアヌス帝が即位。ハドリアヌス帝は、トラヤヌス帝と同じ属州スペイン(ヒスパニア)出身である。トラヤヌス帝のじだいから軍事面で評価された。

 ハドリアヌス帝は、ゲルマン民族やパルティア(イラン)からローマ帝国を守りきった。中東の一部をパルティアに割譲し、無理な領土拡張は行わなかった。領土の拡大ができない皇帝として当時の元老院からの評価は低かった。

 ハドリアヌス帝は、建築面でも評価が高い。イングランドではハドリアヌスの長城を建築。バルカン半島に都アドリアノープルを建設。ローマの大改修を実施した。

攻の皇帝 トラヤヌス

 98年、トラヤヌス帝が即位。騎士階級(平民の有力者)や属州出身者を徴用した。その1人がハドリアヌス帝である。

 トラヤヌス帝は、領土の拡張で元老院の指示を集めた。ルーマニア(ダキア)を征服。パルティアから、アルメニアを奪い、中東最大の都市クテンシフォン(現在のバグダード)を占領した。

始の皇帝 ネルウァ

 五賢帝時代の始まりは、96年に即位した。ネルウァ帝である。前皇帝の暗殺をうけて、元老院の指名を受けて即位。専制的な政治を改めて、元老院を尊重した。しかし、66歳という高齢であったので、2年でトラヤヌス帝にその地位を譲った。ご検定の仕組みを作った皇帝である。

 トラヤヌス帝は、スペイン(ヒスパニア)出身の軍人で、人望が厚かった。そのため、ネルウァ帝は、トラヤヌス帝を養子にして、後継者にした。