7世紀のイタリア ヴェネツィアの成立

前回の復習 8世紀のイタリア

 8世紀のイタリアは2つの国の影響を強く受けていた。ランゴバルド王国と東ローマ帝国である。そこへ、フランク王国が登場。ピピンの寄進でローマ教皇と良好な関係を築く。これがカール大帝の戴冠につながる。

 今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。

ヴェネツィア

ヴェネツィアとは

 ヴェネツィアは、イタリア北西部の都市である。正式にはワンに浮かぶ島である。5世紀から異民族の侵入からのがれて、周辺民族が居住するようになった。

自治がみとめられる

 ヴェネツィアは、東ローマ帝国に属していた。しかし、周辺はランゴバルド王国に囲まれ陸の孤島になっていた。97年、ヴェネツィアは、東ローマから自治を認められた。選挙で選出された総督が統治するようになった。これがヴェネツィア共和国の始まりである。

公会議

公会議とは

 公会議とは、ローマ皇帝(この時は東ローマ皇帝)が主催する聖職者の会議。テーマはキリスト教の教義の決定である。

コンスタンティノーブル公会議

 80年、東ローマ皇帝が第3回コンスタンチノーブル公会議を招集した。テーマは5世紀から協議されていた単性論であった。単性論は、エジプトを中心に広まっている新たな教義である。この会議でも単性論は異端とされた。

ランゴバルド王国

 ランゴバルド族は、最後に移動したゲルマン民族である。6世紀前半に、ユスティアヌス帝の東ローマ帝国とともにイタリアに侵入。その後、独立した。イタリア北東部の小国であった。

 ランゴバルド族は、ゲルマン民族で主流のアリウス派を信仰。しかし、教皇グレゴリウス1世の布教をうけて、アタナシウス派へ改宗。イタリア市民の支持を獲得。8世紀初頭にはイタリアの大部分を征服。イタリアの東ローマ帝国領は、ローマとラヴェンナ、ヴェネツィアなどのごくわずかな地域となった。

ゲルマン民族への布教

 5世紀末、ローマ教皇にグレゴリウス1世が即位。ローマ教会はゲルマン民族への布教を開始した。スペインの西ゴード族やイタリアのランゴバルド族はこの時期にアリウス派からアタナシウス派に改宗を進めた。

 さらに、イギリスへも布教を行った。カンタベリー大司教が誕生したのもこのころである。

 では、教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン民族への布教を積極的に進めたのであろうか。これは、コンスタンチノーブル教会との首位権争いを行っていたからである。

 教皇グレゴリウス1世は、ベネディクス修道院の修道院運動を積極的に支持した。教皇グレゴリウス1世は、もともとはローマの名門貴族であったが、修道士になってローマ教皇になった。ゲルマン人への布教の中心も、ベネディクス修道院の修道士が中心であった。