11世紀のイタリア カノッサの屈辱と教会東西分裂

前回の復習 12世紀のイタリア

 12世紀のイタリアは、最強の皇帝と最強の教皇が誕生した時代である。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世とローマ教皇インノケンティウス3世である。

 今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。

シトー修道会

 11世紀末、シトー修道会が成立。12世紀初頭に公認された。

第1回十字軍

 11世紀は、中東はセルジューク朝の時代である。セルジューク朝はビザンツ帝国に脅威を与えた。そのため、ビザンツ皇帝はローマ教皇に救援を要請した。これが十字軍の始まりである。

 当時、ローマ教皇とビザンツ皇帝は、キリスト教のトップの座をめぐり争っていた。ローマ教皇は、キリスト教トップの座を狙うチャンスとして十字軍の派遣を決定した。当時のローマ教皇は、改革派のウルバヌス2世である。

 通常、この場合は神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)に依頼する。ただ、当時は叙任権闘争の真っただ中。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係はよくなかった。そのため、ローマ教皇はクレルモン宗教会議を開き、フランス諸侯を中心とした十字軍を編成。

 第1回十字軍は、イェルサルム王国を建国。成功に終わった。

サレルノ医科大学

 11世紀は、前述のとおりセルジュークの時代である。ビザンツ帝国はセルジュークの脅威にさらされていた。そのため、ギリシャの学者がイタリアへ移住するようになった。

 11世紀半ば、南イタリアのナポリ近郊の町サレルノに医学の専門学校が建設された。サレルノ大学である。当時は医学の専門学校であったが13世紀に総合大学に変わる。

教皇 vs 皇帝

叙任権とは

 叙任権とは、聖職者の任免権(人事権)である。中世の教会は、寄付によって多額の資産を持っていた。この資産を使えるのが教会のトップである聖職者であった。

 歴代のローマ教皇は、寄付の見返りにこの叙任権を皇帝や国王に与えた。

ノルマン朝の成立

 84年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はローマを占領した。教皇グレゴリウス7世はノルマン人に援軍を要請した。85年、ノルマン人がローマを奪還。グレゴリウス7世はローマを脱出。サレルノで最期を迎える。

 88年、再び改革派の教皇が即位する。十字軍を指揮するウルバヌス2世である。

 ノルマン人は、12世紀に入ると南イタリアに両シチリア王国を建国する。

 ノルマン人は10世紀初頭に北フランスにノルマンディー公国を建国。この頃に。ノルマン人はローマ=カトリックに改宗。ローマへ聖地巡礼するようになる。11世紀に入ると、イスラム軍の侵攻に悩む南イタリアの傭兵として移住するようになった。

皇帝のローマ占領

 皇帝ハインリヒ4世は、カノッサの屈辱に対する復讐を開始。反教皇派の聖職者を味方につけた。80年、反改革派のローマ教皇が即位。81年、皇帝ハインリヒ4世がローマへ侵攻。84年、ローマを占領。反改革派教皇のもとで、ハインリヒ4世の戴冠式が行われた。

カノッサの屈辱

 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に反対。グレゴリウス7世を廃位して、反改革派の教皇を擁立しようとした。

 教皇グレゴリウス7世は、これに対抗。皇帝ハインリヒ4世を破門。これを受けて、反皇帝派の諸侯によって、ハインリヒ4世は皇帝の地位を追われた。

 77年2月、すべてを失ったハインリヒ4世は、雪のカノッサ城へ向った。教皇グレゴリウス7世に謝罪するためである。3日3晩、雪の中で謝罪。破門を解かれた。

 破門とは、キリスト教の刑罰の一つで、姦淫(性交)などの滞在に適用された。本来の意味は、キリスト教徒ではないことを示し、死後に共済されないことを占めした。事実上の効果はキリスト教社会からの村八分を意味した。

グレゴリウス7世の改革

 10世紀に入ると、教会改革運動が始まる。これが修道院運動である。フランスのクリュニー修道院を中心に叙任権の奪回を目指す運動である。

 73年、修道院運動の中心人物であったグレゴリウス7世が即位。グレゴリウス改革が行われた。

 グレゴリウス改革の中心は2つである。聖職者売買の禁止と聖職者の妻帯の禁止であった。 

東西教会大分裂

東西教会大分裂とは

 54年、ローマ教皇レオ9世とコンスタンティノーブル大司教は互いに破門を言い渡した。これが東西教会大分裂である。

 では、なぜこのようなことが起こったのであろうか。そこには、ビザンツ帝国の南イタリア総督がかかわっている。

 当時の南イタリアは、アラブ人の侵入に苦しんでいた。ノルマン人傭兵が活躍したのもこの時代である。そこで総督はローマ教皇とビザンツ帝国の軍事同盟を画策した。しかし、ビザンツ帝国のコンスタンティノーブル大司教がこれに反発。これが、互いの権力闘争に再び火をつけ、相互破門に至った。

 この東西教会分裂は現在も続いており、ローマ=カトリックと東方正教会に今も分かれている。

改革派のローマ教皇 レオ9世

 教皇レオ9世は、11世紀半ばの教皇である。改革派の教皇で、グレゴリウス7世を引き上げたのも彼の功績である。しかし、反改革派の教皇によって、ローマを追われる。

ノルマン人の南イタリア進出

 10世紀後半になると、南イタリアにノルマン人が進出するようになった。

 当時、南イタリアはナポリ王国などがあった。これらの地域は、ビザンツ帝国が支配していた。また、シチリア島は、イスラム教国のアラブ首長国の支配を受けた。