1920年代の イタリア ムッソリーニの台頭

前回の復習 1930年代のイタリア

 1930年代は、ムッソリーニの時代。エチオピア侵攻で国際的に孤立。ファシズム国家への道を進み始める。

 さて、1920年代のイタリアでは、ムッソリーニの独裁政権の成立過程を見ていきます。

ヴァチカン市国

 ヴァチカン市国は、ローマ市内にある世界最小の独立国である。カトリックの総本山であるサン=ピエトロ教会がある。

 この時、イタリアのムッソリーニは、中立の立場をとった。イタリアが参戦したのはパリ陥落の直前の40年6月であった。

vsユーゴスラビア

 ユーゴスラビアは、バルカン半島の西部の国である。イタリアとはアドリア海を挟んで対岸の国である。

 24年、ベルサイユ講和条約でユーゴスラヴィア領とされた国境の港町フィウメを併合。さらに26年にはアルバニアを保護国にした。

ローマ進軍

ファシスト党の独裁

 24年6月、野党議員の暗殺事件が発生。ムッソリーニ首相は辞職の危機に陥った。これを受けて、ファシスト党支持者は暴動をおこした。ムッソリーニ首相も独裁宣言を行った。これによりイタリア議会は事実上機能停止状態になった。

ローマ進軍

 22年10月、ナポリのファシスト党員は、ローマに進軍。ローマを武力制圧した。これにより、イタリア国王は、ナポリのムッソリーニ氏を首相に任命した。

イタリアは何故、ファシズムへ向ったのか

ムッソリーニ氏

 では、なぜ、ムッソリーニ氏は多くの支持者を集められたのでしょうか。

 ムッソリーニ氏は、もともと社会党の党員であった。14年10月、第一次世界大戦に対して主戦論を展開。これにより、ムッソリーニ氏は社会党から除名処分を受けた。

 19年の総選挙では、独自の政党を建てて参加した。しかし、ムッソリーニ氏の政策は、ロシア革命を想起させる内容であった。そのため、国民の支持をを得られず。大敗した。

 ムッソリーニ氏は、これを反省。社会主義色を払しょくする政策をとっていた。そのため、反社会主義、反議会制民主主義を唱えるようになった。

共産党の暴動

 イタリアは、第一次世界大戦で戦勝国となった。しかし、ベルサイユ条約ではほとんど領土の拡張をすることができなかった。それにより、イタリア国民は不満を持つようになった。さらに、戦争が終わるとインフレが発生。イタリア国民の生活は困窮した。

 20年、社会党左派(後の共産党)は、工場や農地を占拠した。これはイタリアの人々にロシア革命を想起させた。とくに、資本家(工場経営者)・地主・軍部はこの動きを警戒した。彼らが救いを求めたのがムッソリーニ氏が率いるファシスト党であった。

 ファシスト党によって、社会党左派(共産党)の反乱をちんあつした。これにより、ファシスト党はイタリア国民の多くの支持を集めた。これが22年のローマ進軍につながる。