4世紀の朝鮮半島 三国時代 三国の成立

 4世紀、朝鮮半島に3つの王朝が誕生した。今回は、その3つの王朝の成立過程を見ていきます。

日本vs高句麗 

 91年、広開大王が高句麗国王に即位。広開大王は、百済に奪われた朝鮮半島北部に向けて進軍を開始した。倭(日本)も、百済の援軍として高句麗と戦っていた。

 『日本書紀』によると、朝鮮半島南部に「任那日本府」が置かれたといわれている。しかし、『日本書紀』以外にこのような記述はなくその存在は否定されている。

 しかし、当時の中国南朝の書物には、倭(日本)の使いが朝鮮半島の一部の領有権の承認を求めていたという記述があり、朝鮮半島に進出していたと推測される。

三国の成立

朝鮮半島南部

 当時の朝鮮半島南部は、3つの地域に分かれていた。西部(東シナ海沿岸)、中南部(玄界灘沿岸)、東部(日本海沿岸)である。これらの地域は、漢王朝から遠く小国に分裂していいた。

 しかし、4世紀に朝鮮半島北部に高句麗が誕生すると、高句麗と隣接する東部と西部は危機感が生じた。この結果、それぞれの地域の有力がこの地域を統一した。西部の百済と東部の新羅である。ただ、南部は5世紀に新羅に征服されるまで分裂まで続いた。

 南部には、製鉄技術を持つ国もあり、これらの国中心に同盟関係にあった。倭(日本)も鉄を求めて朝鮮半島南部に進出していた。

新羅の朝鮮半島南東部統一

 新羅は、朝鮮半島南東部の小国の一つであった。新羅王朝は、3つの家が交互に担った。4世紀に入ると、金氏一族が独占するようになった。4世紀半ばになると、朝鮮半島南東部全域を支配するようになった。

百済の朝鮮半島南西部統一

 百済は、新羅が朝鮮半島南東部に統一する、少し前に朝鮮半島南西部を統一した。

 71年、百済王朝は、高句麗から平壌を獲得。高句麗を朝鮮の北、満州へ追いやった。その後、百済はソウルへ都を移した。翌72年、東晋(中国南朝)に使いを送り朝鮮国王と認められた。その後、東晋と朝貢関係を築くことができた。84年、東晋王朝から僧侶が来朝。百済王朝に仏教が伝来した。 

高句麗、楽浪郡を滅ぼす

 3世紀、朝鮮半島南部が小国に分裂していたころ、朝鮮半島北部はどのようになっていたのであろうか。紀元前2世紀に漢王朝が侵攻。楽浪郡や帯方郡などが置かれた。3世紀初頭に漢王朝が滅亡した後も、魏王朝や晋王朝へ継承された。

 11年、永嘉の乱で晋王朝(中国)が江南へ追いやられた。13年、満州にあった高句麗が楽浪郡(平壌周辺)を占領。翌14年、高句麗·百済連合軍が帯方郡(ソウル周辺)を占領した。これにより、漢民族の朝鮮半島支配は終了した。