5世紀の朝鮮半島 三国時代

三国時代

高句麗

長寿王

 12年、長寿王が即位。14年、前国王である広開大王の功績をたたえた広開大王碑を建設。27年、満州から平壌へ遷都した。平壌周辺には、当時の古墳が多数存在する。

 この後、新羅、百済、燕(五胡十六国)や女真族との戦いが続いた。

 75年、百済の都であるソウルを占領。百済王を殺害した。

広開大王の領土拡大

 4世紀、朝鮮半島の大部分を百済に奪われ、高句麗は満州に追いやられていた。

 391年、広開大王が即位。広開大王は、4世紀に百済に奪われた平壌(ピョンヤン)周辺の奪還に燃えていた。

 3世紀末、五胡十六国の一つの中国東北部の燕と戦う。一方、04年、朝鮮半島に進出していた日本と戦う。27年、百済から平壌を奪還。平壌へ遷都。

 広開大王の功績は、1884年に発見された広開大王碑で判明した。この碑を建てたのは、後を継いだ長寿王によって建てられた。この碑の文面で広開大王の功績がわかるとともに、戦乱の4世紀の東アジア情勢のわかる数少ない資料の一つとなる。さらに長寿王時代の高句麗の強さを示すものとなった。

百済

 百済は、4世紀に全盛期を迎えていた。朝鮮半島の大部分を支配し、平壌周辺まで領土を拡大していた。しかし、3世紀末に高句麗で広開大王が即位すると、高句麗に領土をとられ続けた。

 75年には、ソウルが陥落。百済は滅亡した。百済の残党がソウルの南、熊津(現在の公州市)に拠点をおいて再起をはかった。

新羅