10世紀の朝鮮半島 高麗王朝の建国

宋王朝 or 遼王朝

 モンゴルでは、16年に北方騎馬民族国家である遼王朝が成立した。26年には、女真族国家の渤海を滅ぼし、高麗王朝と国境を接するようになった。36年には北京周辺の燕雲十六州を獲得した。

 一方、10世紀初頭の中国は、五代十六国の戦乱期であった。36年には援軍の見返りに燕雲十六州をモンゴルの遼王朝に明け渡した。

 60年、開封で宋王朝が建国。79年に中国を再統一した。

 高麗王朝は、開封を治めていた五代の国々朝貢を行っていた。宋王朝が建国するとそのまま宋王朝へ朝貢するようになった。

 10世紀末、遼王朝が高麗王朝へ侵攻。高麗王朝は、遼王朝に降伏。宋王朝への朝貢を取りやめて、遼王朝へ朝貢するようになった。

 日本と高麗王朝との関係はどのようなものであっただろうか。37年に、高麗王朝は、日本(平安時代)に朝貢を求めたが、日本の調停はこれを拒否した。

高麗王朝の統治システム

 高麗王朝は、朝貢先であった宋王朝の政治システムを採用した。官僚採用では、宋王朝時代に強化された科挙を導入。宋王朝同様、文官を優遇する文治主義を採用した。

 初期の高麗王朝を支えたのは、元高句麗の人々だけではなかった。遼王朝によって滅亡した渤海の人々や、旧新羅の官僚たちであった。彼らは後に両班(やんばん)として特権階級となっていく。

 一方で、旧百済(朝鮮半島南西部)の人々は冷遇されていた。

高麗王朝の建国

高麗王朝とは

 高麗王朝とは、9世紀から14世紀にかけて朝鮮半島に存在した王朝である。

都は開城(ケソン)

 都は開城(ケソン)に置かれた。開城は、現在の北朝鮮にあり、軍事境界線付近に当たる。2013年には、世界遺産に登録されている。2000年代の太陽政策でこの地域には開城工業団地が作られた。

三国統一

 高麗王朝が成立当時、朝鮮半島は3つの王朝が存在していた。高麗王朝は、北部を治めていた。南部は、東(日本海側)に新羅(しらぎ)王朝、西(東シナ海側)には、後百済(くだら)王朝があった。

 35年、新羅王朝が高麗王朝に降伏。翌36年、高麗王朝は、後百済王朝へ侵攻。朝鮮半島を再統一した。

高麗王朝の建国

 では、高麗王朝はどのようにして建国されたのだろうか。高麗王朝を建国したのは、王建である。王建は、後高句麗の官僚であった。しかし、後高句麗の国王は、暴君で国民の支持が得られなかった。そのため、前国王から禅譲される形で16年に国王になった。これが高麗である。

 26年、北方の渤海が遼王朝によって滅ぼされると、高麗王朝は、渤海からの亡命者を受け入れた。彼らは、高麗王朝の官僚となって、発展に寄与した。

後三国時代

 9世紀まで、朝鮮半島は新羅王朝が統治していた。しかし、9世紀に入るとその影響力は著しく低下。各地で農民反乱が勃発した。

 当時、新羅王朝は日本と正式な国交はなく、朝貢先であった唐王朝も衰退し、9世紀後半の黄巣の乱で一地方政権に没落していた。そのため、農民反乱は鎮圧できずについに独立を果たしていった。

 900年には、朝鮮南西部に後百済(ごくだら)が、901年には、後高句麗(ごこうくり)がそれぞれ新羅王朝から独立。