17世紀前半の朝鮮半島 清王朝への服従

17世紀前半の朝鮮半島

東アジア情勢

 18世紀前半の中国は、明王朝から清王朝への移行期であった。ただ、当時の人々は、明王朝が衰退しているのは認識しつつも、明王朝が崩壊するとの認識は乏しかった。それは、16世紀後半の豊臣秀吉(日本)の朝鮮出兵を見ていたからである。朝鮮王朝をはじめとして東アジア諸国は、明王朝と清王朝の動向に右往左往した。

 このころ、日本では徳川家康が江戸幕府を開いたころである。この当時は戦国時代の殺伐とした風潮はまだ残っていた。

 同じ頃、ヨーロッパでは三十年戦争が展開されていた。三十年戦争によって当時東アジアの交易を支配していたスペインの影響力が衰退。代わりに独立したばかりのオランダが台頭してくる。

17世紀前半の
主な政治グループ

 17世紀前半、朝鮮王朝では3つの政治グループが存在した。

西人派
(セイジン派)
仁祖時代に政権をとる。
17世紀後半に、老論派(ノロン派)と
少論派(ソロン派)に分裂する。
北人派
(ブギン派)
光海君の時代に政権をとる。
しかし、その後の仁祖時代に入ると粛清され
滅亡する。
南人派
(ナミン派)
18世紀まで続く政治グループ

仁祖(インジョ)

西人派政権

西人派のクーデター

 18世紀前半、朝鮮王朝は新興勢力の清王朝に対してどのような立場をとるかで苦慮していた。

 前政権である光海君国王の北人派政権は、明王朝と清王朝に対して中立な立場をとっていた。これに対して、西人派が清王朝に対して徹底抗戦を主張した。

 23年、西人派は仁祖(インジョ)を擁立してクーデターを実施。光海君を廃し、仁祖(インジョ)を朝鮮国王にした。

北人派の壊滅

 翌24年、平安道の北人派がクーデターを引き起こした。一時、首都ソウルを制圧したものの、西人派がすぐに鎮圧した。

 このクーデターで、北人派の大部分が処刑された。生き残った者も清王朝(満州)へ亡命した。

清王朝への服従

清王朝の状況

 中国の王朝は、3つの民族による王朝が繰り返された。漢民族、モンゴル民族と女真族(満州族)である。

 清王朝は、女真族の王朝である。女真族は、中国東北部の狩猟民族である。12世紀には金王朝を建国。中国北部を支配した。

 明王朝が衰退すると女真族は独立へ向けて動き出した。83年、ヌルハチは、女真族を統一した。。92年の豊臣秀吉の第1次朝鮮出兵の際、加藤清正が女真族の住む中国東北部へ侵攻した。当時の日本の文献ではこの国はオランカイと書かれていた。加藤清正はこの国が明王朝ではないと認識するとすぐに撤兵した。

 16年、ヌルハチは明王朝から独立し、後金の建国を宣言した。19年、サルフの戦いで明王朝軍を撃退した。

 26年、ホンタイジが即位。32年にはモンゴルの一部を併合。36年、中国王朝を目指して国号を清に変更。中華皇帝を名乗るようになる。しかし、ホンタイジも明王朝を滅亡させることができず、43年に亡くなる。

明王朝の状況

 明王朝は、16世紀北虜南倭で苦慮した。そこに追い打ちをかけたのが、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵である。

 19年、独立を宣言した女真族のヌルハチに対して出兵。しかし敗北(サルフの戦い)。31年に李自成が反乱。44年、李自成によって明王朝は滅亡した。同じ年、清王朝軍が李自成を追放hして北京に入城した。

明王朝を支援

 話を20年代に戻す。19年に明王朝軍は女真族に敗北した。この時、光海君は明王朝軍に援軍を送った。その後、光海君は、女真族に対して、今後中立を保つことを約束した。

 しかし、23年の西人派のクーデターでこの約束は反故にされた。

清王朝軍の侵攻

 23年のクーデターを受けて、女真族のホンタイジは、朝鮮王朝へ進軍した。平壌(ピョンヤン)を占領すると兄弟の盟約を結び和平した。

 36年、ホンタイジが清王朝の皇帝を主張。朝鮮王朝に臣下になるように求めた。朝鮮王朝はこれを拒否。ホンタイジは再び朝鮮へ兵を送った。 

屈辱の三田渡の盟約

 朝鮮王朝は、江華島に立て籠もり、明王朝の援軍を待つ予定であった。しかし、江華島へ逃げ込む前に清王朝軍はソウルを占領した。また、この時の明王朝は李自成の乱の真っただ中、援軍を送る余裕はなかった。

 仁祖(インジョ)は、清王朝に降伏。清王朝皇帝ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼を行った。これにより、朝鮮王朝は、明王朝の属国から清王朝の属国に代わった。具体的には、明王朝に行っていた朝貢を清王朝に行うようになり、明王朝への侵攻の際には清王朝軍に援軍を送ることになった。国王の長男など約50万人が捕虜として満州へ連行された。

復讐に燃える孝宗

 44年、清王朝軍が北京に入城すると、人質は解放された。

光海君(クァンヘグン)

北人派政権

後継者問題で北人派が分裂

 光海君は、前国王の宣祖の側室の子であった。02年、正室が子どもを残さずに亡くなった。宣祖は新しい正室(継室)を迎えた。新しい正室は、待望の子どもが生まれた。

 正室の子を押すグループと、光海君を押すグループに北人派が分裂した。最終的には、光海君を押すグループが勝利した。

日本との国交回復

 光海君は、国王に即位する前から活躍していた。豊臣秀吉の朝鮮出兵時には先頭に立って日本軍に抵抗した。豊臣秀吉が撤兵すると、戦後復興に努めた。

 この間、日本でも大きな変革が起きた。03年、徳川家康が江戸幕府が成立した。05年に徳川秀忠が第2代将軍に就任した。

 07年から、朝鮮は日本に朝鮮通信使を派遣するようになった。朝鮮通信使は1811年までに続いた。09年には、徳川政権と国交を回復した。

 内政では、税制改革(大同法)をおこない、戦火で荒れた朝鮮の復興に努めた。

清王朝VS明王朝

 舞台は、朝鮮の北にある満州(中国東北部)に移す。16年ヌルハチが満州を統一。金王朝(後金)を復興させた。のちの清王朝である。17年、満州にある明王朝の拠点を攻撃。翌18年、明王朝はヌルハチに奪われた拠点を奪還するために、満州へ進軍した。サルフの戦いである。

 光海君は、明王朝軍に援軍を派遣した。サルフの戦いは、ヌルハチが明王朝軍を撃退した。光海君は、サルフの戦いを受けて、ヌルハチに対して明王朝に援軍を送らないことを約束した。

クーデターで失脚

 23年、西人派がクーデターが発生。これにより、光海君は、廃位された。