16世紀後半の朝鮮半島 豊臣秀吉の朝鮮出兵

16世紀後半の国際情勢

スペインの台頭

 16世紀後半の覇権国は、フェリペ2世のスペインである。スペインは、インカ帝国、アステカ王国を征服し南北アメリカを手中に収めていた。さらに、アジア交易の雄で峰ルトガルや北海貿易の拠点であるオランダを支配していた。

 スペインは、東アジアにも進出していた。この時期にフィリピンを占領した。明王朝とは、ポルトガルの拠点のマカオを通じて交易を行った。一方で、日本では九州を中心に多くのキリシタン大名が誕生した。

 スペインはポトシ銀山を通じ世界中に多くの銀を供給した。東アジアも例外ではなかった。スペインは後期倭寇を通じて東アジア全域に銀が供給された。

16世紀後半の東アジア

 この頃、明王朝はかつての勢いはなくなっていた。北方からは騎馬民族が略奪行為が行われていた。一方で中国南部では、後期倭寇が密貿易と海賊行為が横行していた。倭寇といわれるから日本人と思われがちだが、その大部分は日本人の侍コスプレをした中国人が大部分を占めた。その中にはポルトガル人やスペイン人も参加した。この状況を北虜南倭という。明王朝はこの影響で衰退傾向にあった。

 一方、日本は、織田信長によって室町幕府が滅亡した。15世紀半ばの応仁の乱で荒廃した京都は織田信長や豊臣秀吉によって復興した。

宣祖(ソンジョ)

朝鮮国王、宣祖(ソンジョ)

 宣祖(ソンジョ)は、67年に朝鮮国王に即位。1608年まで国王と務めた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵

朝鮮出兵の目的

 豊臣秀吉は、90年に関東(小田原)の北条氏を倒し天下統一を果たした。その2年前の88年、刀狩に合わせて海賊禁止令を発令した。豊臣秀吉は、海賊禁止令によって後期倭寇の取り締まりを行った。豊臣秀吉は、中華皇帝の地位を求めて明王朝への侵攻を計画した。そのため、豊臣秀吉は、朝鮮に対し進軍の許可を求めた。当然、朝鮮王朝は、明王朝の冊封国として断固拒否した。これで始まったのが、朝鮮出兵である。

文禄の役

 92年、豊臣秀吉は、15万の兵隊を朝鮮へ向わせた。豊臣秀吉軍は、瞬く間にソウルを陥落。ピョンヤンも平定した。しかし、民衆の反抗や明軍の援軍で膠着した。まもなくピョンヤンは明王朝軍によって奪還された。94年、戦争の泥沼化を恐れ、休戦した。

朝鮮王朝の英雄、李舜臣

 このとき、朝鮮の将軍として活躍したのが李舜臣である。彼は水軍として活躍。日本から制海権を奪い、補給路を断った。李舜臣は、現在も朝鮮の英雄の一人であり、忠臣(チュンム)の愛称で呼ばれている。

講和の決裂

 豊臣秀吉は、3つの条件を求めた。明の降伏。明王朝の皇帝の娘を天皇の后にすること。そして、朝鮮南部の割譲である。どれも明王朝が飲める内容ではなかった。96年、日明の交渉は決裂。再び戦闘は再開された。

慶長の役

 日明の交渉が決裂すると、豊臣秀吉は再び朝鮮へ兵を送った。秀吉軍は北部へ進軍することができず、南部で一進一退の攻防を続けた。98年8月に豊臣秀吉が亡くなると、秀吉軍は撤兵した。

 1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利。03年に徳川家康が征夷大将軍になると、日本と朝鮮の国交回復交渉が始まった。

やきもの戦争

 秀吉軍は、多くの朝鮮人捕虜を日本に連行した。その中には焼き物職人も含まれていた。彼らによって、有田焼や萩焼などの陶器の生産が盛んになった。

 また、九州のキリシタン大名などは、朝鮮人捕虜を奴隷としてスペインに売り渡していた。

士林派

士林派とは

 士林派は、李氏朝鮮の政治派閥の一つである。17世紀以降の政治グループのルーツは、すべて士林派にさかのぼる。

 士林派は、科挙に合格した実力派のエリート官僚である。中小の貴族層が中心で、朱子学に精通していた。

北人派と南人派

 91年、東人派政権が誕生した。東人派は、西人派の粛清を行った。西人派の処遇問題で東人派は分裂した。穏健派(流刑で十分)の南人派と強硬派(処刑すべし)の北人派である。

 この後、南人派は政権の中枢から追放され、北人派政権が誕生した。この北人派政権が豊臣秀吉の朝鮮出兵に対応したのである。

東人派と西人派

 75年になると、士林派は2つのグループに分裂した。東人派と西人派である。80年代、東人派と西人派の権力抗争が行われた。

士林派政権

 15世紀から16世紀前半にかけて、朝鮮の高官は2つのグループに分かれていた。大貴族を中心とした勲旧派と中小貴族と中心とした士林派である。

 67年、宣祖(ソンジョ)が朝鮮国王になると、政権の中心は士林派(シリン派)となった。

備辺司(ピビョンサ)

 備辺司(ピビョンサ)とは、戦争などの非常事態時に設置される政策決定機関である。15世紀初頭の対馬での反乱をきっかけに設置された。しかし、15世紀半ばには後期倭寇や女真族の侵入などで頻繁に設置されるようになった。

54年に、庁舎を建設し、備辺司は常設化した。

 56年、15世紀に職田の不足により職田法を廃止。月給制へ移行した。職田法とは、給料の代わりに田畑を渡す制度で、15世紀半ばに成立した。