1810年代の朝鮮半島 イギリス船の来航

19世紀前半の朝鮮

 19世紀は、李朝末期である。外戚の安東金氏が政治を牛耳っていた。

イギリス船の来航

 18世紀まで、ヨーロッパと東アジアの貿易はオランダが独占していた。鎖国下の江戸幕府も、長崎の出島に商館を置いてオランダと交易を行っていた。

 しかし、19世紀に入るとヨーロッパでナポレオン戦争が勃発。オランダはフランスのナポレオンの支配下に入った。イギリスはこれを好機とみて東アジア各国に船を差し向けた。

 08年には、日本の長崎でイギリス軍艦が侵入。肥前藩(佐賀藩)出身の長崎奉行が切腹する事態になった。(フェートン号事件)。

 15年ウィーン議定書でナポレオン戦争が終結。オランダはフランスの支配から脱却した。しかし、この時にアジアの玄関口であった南アフリカ(ケープタウン)をイギリスへ譲渡した。これにより、アジアの雄はオランダからイギリスに代わった。16年には、イギリス使節アマーストが清王朝の北京を訪問。三跪九叩頭の礼を拒否したため、交易は実現しなかった。

 また、この時代にイギリスで蒸気船(黒船)や蒸気機関車(汽車)が実用化されている。

北朝鮮で農民反乱

 11年、朝鮮半島北部の清王朝(中国)との国境付近で大規模な農民反乱が発生した。この反乱の鎮圧に半年がかかった。

 この地域は、清王朝との交易のおかげで大いに栄えていた。一方で、交易にかかわる豪商と普通の農民の格差も多く出ていた。

 そのような中、没落貴族である洪景来(こうけいらい)が農民や不平官僚とともに反乱を起こした。