1830年代の朝鮮半島 アヘン戦争前の朝鮮

アヘン戦争

ヨーロッパの平和

英仏百年戦争終結

 1810年代にウィーン会議で英仏百年戦争は終結。そのような中で産業革命が進んだ。これにより、ヨーロッパ各国はアジアへ目を向ける余裕が出てきた。

エジプト=トルコ戦争

 平和になったヨーロッパ諸国が向かったのは、オスマン帝国であった。20年代のギリシャ独立戦争と30年代のエジプト=トルコ戦争である。40年、ロンドン条約でエジプト=トルコ戦争が終結すると、イギリスはアヘン戦争へ向った。

 

産業革命

 18世紀後半のイギリスでは、産業革命が始まった。これにより大量の綿製品を作ることが可能になった。そのため、イギリスは世界各地に綿製品の市場を求めた。

 19世紀初頭には、交通革命が起きる。蒸気船や蒸気機関車の登場でアジア、ヨーロッパ間の移動時間は飛躍的に短くなった。

英清貿易交渉

 18世紀初頭、イギリスは清王朝と貿易交渉を行っていた。当時、イギリスは清王朝に対して大幅な貿易赤字を出していた。

 17世紀後半のヨーロッパでは、清王朝の製品ブームが起きていた。これをシノワズリーという。特に清王朝産の陶磁器は飛ぶように売れた。18世紀に入っても陶磁器ブームは終わらなかった。18世紀半ばに始まったロココ様式の建築物に清王朝産の陶磁器はマッチした。

 19世紀に入ると紅茶ブームが始まった。ヨーロッパ商人は競って中国産茶葉を求めた。茶の重要性はアメリカ独立戦争期のボストン茶会事件にも表れている。

 イギリスは、貿易赤字削減のためにイギリス産綿製品の輸出拡大が急務であった。しかし、東アジアでは絹織物の文化があり、綿製品への需要はあまりなかった。

 イギリスは、この時禁じ手は行った。インド産麻薬(アヘン)の販売を行った。これにより、清王朝南部で、アヘン中毒者が大量に発生した。34年にイギリス政府が東アジアの中国への貿易独占権を廃止すると清王朝へのアヘンの流入量は急増した。

 これに対して、清王朝は広州に林則徐を派遣。アヘンの取り締まりを強化した。そして、没収したアヘンの賠償をもとめて40年アヘン戦争が勃発した。

18世紀の東アジア

 18世紀から19世紀前半にかけて、世界史で東アジアの記述が極端に少なくなる。

 その要因は、鎖国政策である。清王朝をはじめとした東アジアの国々は鎖国政策を展開していた。ただ、鎖国政策ができるのは強国のみである。17世紀後半から19世紀初頭の東アジアは多くの国は軍事面でも経済面でも他国に優位な立場をとることができた。

 経済面では、清王朝は、陶器や茶など主力の輸出商品を多数持っていて優位に交渉することができた。また、日本も多くの金山や銀山の開発が行われていた。

 軍事面でも、清王朝や江戸幕府は強力な軍事政権でもあった。一方で、国内は平和でこの時期大きな戦争は生じていない。

 一方で、ヨーロッパでは、16世紀初頭のドイツ三十年戦争を皮切りに頻繁に戦争が行われていて、地球の反対側を攻める余裕などなかった。特に17世紀末~19世紀初頭の第二次英仏戦争百年戦争は大きな影響を与えた。

1830年代の朝鮮

 1830年代、朝鮮は李氏の国王の国家であった。16世紀に清王朝が成立すると清王朝へ朝貢を行うようになった。

 19世紀前半は安東金氏による外戚政治が行われていた。この時期、カトリック教徒への弾圧がたびたび行われた。