1900年代の朝鮮半島 日露戦争と朝鮮の保護国化

 1900年代、日本は日露戦争に勝利。日本は列強の仲間入りを果たすとともに、朝鮮の保護国化けるを進めた。そして、韓国併合につながる。

韓国併合と伊藤博文暗殺

 09年、伊藤博文は朝鮮統監を退任した。朝鮮半島の政策転換により、韓国独立から韓国併合へ舵を切ったためである。

 その伊藤博文は、09年10月に満州のハルビンで暗殺された。犯人は朝鮮人抗日派の安重根である。この事件により、韓国併合の勢いは増した。

 10年、日韓併合。

  • ソウルの名称 漢城→京城
  • 統監府→総督府
  • 初代総督は、寺内正毅前統監

 以後、朝鮮総督は、現役軍人が就任。朝鮮の警察の要職は日本の憲兵が兼任した。 

第三次日韓協約とハーグ密使事件

 07年7月、オランダのハーグで万国平和会議が開かれた。第二次日韓協約の無効を訴えるために、大韓帝国皇帝の高宗は密使を派遣した。日本はこの時点で列強各国との根回しは完了しており密使は相手にされなかった。

 伊藤博文は、第二次日韓協約違反として、高宗を糾弾。高宗は退位し、息子が皇帝に即位した。

 その後、第3次日韓協約を締結。韓国軍を解散した。これにより、大韓帝国は内政権と軍事権を失った。

 失業した軍人は、抗日運動(義兵運動)に参加。義兵運動は勢いを増した。

外交交渉

 05年から日本政府は韓国の植民地支配に関する外交交渉を開始した。05年、第2次日英同盟を締結。イギリスのインド支配を容認する代わりに日本の朝鮮支配を認められた。同05年、桂=タフト協定で、アメリカのフィリピン支配を認める代わりに日本の朝鮮支配が認められた。日露戦争が終結すると07年日露協約を締結。ロシアの外モンゴルを支配を容認する代わりに日本の朝鮮支配が認められた。

ポーツマス条約と第二次日韓協約

 05年09月、アメリカ大統領Th=ローズヴェルトの仲介で講和条約が締結された。ポーツマス条約である。

 05年11月、第2次日韓協約を締結。朝鮮統監の設置と外交については日本が仲介することが決まった。この交渉にあたったのは、伊藤博文である。伊藤博文は軍隊で大韓帝国に圧力をかけて交渉した。そのため、現在の北朝鮮政府と韓国政府は正式な条約ではないとしている。

 06年、朝鮮統監という役職を設置。初代統監には伊藤博文が就任した。

 07年、ポーツマス条約に基づいてロシアと日韓協約を締結。互いの勢力圏を相互承認した。

日露戦争

 04年に日露戦争が勃発。主戦場は朝鮮半島の北にある満州が舞台となった。

第一次日韓協約

 日露戦争が始まると、大韓帝国(朝鮮)とロシアの結びつきを監視するため、第一次日韓協約が締結されて。

 大韓帝国は、日本政府が推薦する財政顧問と外交顧問を置き、重要な外交課題は日本と協議して決定することになった。財政顧問は日本人が派遣され、外交顧問には外国人が派遣された。

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