1890年代の朝鮮半島 日清戦争と朝鮮の独立

19世紀まで、朝鮮半島は清王朝の宗主国であった。1850年代にアロー戦争に敗北。一方、明治政府(日本)は、清王朝に対して朝鮮半島の独立を求めた。これによって始まったのが日清戦争である。

大韓帝国の成立

 17世紀以来、大韓帝国は清王朝の属国であった。しかし、日清戦争(下関条約)で清王朝から独立国になった。97年、李氏朝鮮から大韓帝国になり、朝鮮国王大院君は大韓皇帝(中華皇帝と形式上同じ地位)となった。

 この大韓帝国は、1910年に日韓併合まで続く。

親日派 vs 親ロ派

 では、日本はなぜ朝鮮を独立させようとしたのだろうか。それはウラジオストーク(日本海)に進出したロシアを警戒するためである。

 しかし、下関条約(日清戦争)で独立した朝鮮半島は親日派と親ロ派に別れた。親日派の中心人物は朝鮮国王大院君であり、親ロ派の中心人物は朝鮮国王の后、閔妃であった。

三国干渉

 95年1月、下関条約で日本政府は遼東半島を獲得した。遼東半島は朝鮮半島の付け根にある半島で、朝鮮半島の防衛上重要なポイントであった。

 95年4月、ロシアは、フランス・ドイツとともに三国干渉を行い、遼東半島は清王朝へ返還された。その後、中国分割で、ロシアは遼東半島を獲得。さらに向かいの山東半島にドイツが進出した。イギリスもロシアを警戒し、山東半島の威海衛に軍事拠点を置いた。ロシアは、遼東半島を獲得することで対馬海峡を通らずに東シナ海へ進出するルートを獲得した。

 三国干渉の結果は、朝鮮半島情勢にも大きな影響を与え、親ロ派が勢いづいた。

閔妃暗殺事件

 95年4月の三国干渉で親ロ派の発言力が高まった。その中心人物は閔妃であった。閔妃は親日派の官僚を次々排除していった。

 日本政府はこの体制に危機感を感じていた。10月、日本の朝鮮公使が王宮に侵入。

日清戦争

日清戦争とは

 日清戦争とは04年に勃発した日本(明治政府)と清王朝との戦争である。この戦争の争点は、朝鮮半島の宗主権であった。この戦争は05年1月の下関条約で終結。

当時の日本は

 日本は、60年代に大政奉還で明治新政府が成立。日本海に進出したロシアを警戒し、富国強兵に努めた。財政面では最新の軍艦を装備するために地租改正を実施。軍事面では徴兵制を導入した。80年代には、大日本帝国憲法(明治憲法)を制定し、帝国議会を開いた。

当時の清王朝は

 一方、清王朝は、40年代のアヘン戦争の敗北以降、50年代のアロー戦争、80年代の清仏戦争と連敗が続いていた。

 清王朝の正規軍はすでに時代遅れになっており、主力部隊は李鴻章ら漢人官僚の傭兵部隊になっていた。

きっかけは農民反乱

甲午農民戦争

 日清戦争のきっかけは、朝鮮半島の農民反乱の反乱であった。

 当時、日本への米輸出の増加で米の価格が高騰していた。そのため、朝鮮の人々の生活は困窮していた。一方で、李氏朝鮮は、増税を実施。更に困窮した。

 朝鮮半島では、反キリスト教団体の東学党が結成された。94年1月、彼らが中心となった農民反乱が勃発した。この反乱を東学党の乱や甲午農民戦争と呼ばれる。

 日本と清王朝は、互いに戦争を回避するために天津条約を締結していた。甲午農民戦争が勃発すると、朝鮮国王は清王朝へ支援を求めた。これにより、天津条約に基づいて日本と清王朝が反乱鎮圧のために挙兵した。

 反乱は瞬く間に鎮圧された。

宗教 東学党

 この頃、朝鮮半島では新興宗教が成立していた。西洋化を否定し、平等と社会変革を唱えた東学党である。東学党によって農民は団結。甲午農民戦争が起こった。そのため、甲午農民戦争は、東学党の乱と呼ばれることもある。

経済的理由

 76年、朝鮮は開国。これにより、日本向けの米の輸出が増大した。そのため、米価が急騰した。

 89年、朝鮮半島で大凶作が発生。これにより、朝鮮は米の輸出禁止を実施。日本は、これに激怒、朝鮮に賠償を要求した。93年、朝鮮はこれに応じ、賠償を支払う。これにより、朝鮮は増税を実施した。