朝鮮戦争後の韓国と北朝鮮
金日成(北朝鮮)
北朝鮮では、金日成が親ソ派や親中派を次々排除。朝鮮労働党内で独裁的な地位を固めていた。
李承晩大統領
四月革命で失脚
李承晩は、朝鮮戦争休戦後、反共産主義を明確化した。それとともに、反共産主義を利用して独裁色を強めた。野党指導者を逮捕したり、言論弾圧が行われた。これは、韓国特有の自称ではない。日本やアメリカでも赤狩りとして共産党関係者と思われる人物は公職から追われた。
60年4月、学生を中心として民主化デモが発生。これにより李承晩大統領は失脚。アメリカへ亡命した。韓国は、憲法を改正(第二共和国憲法)。民主化政権を樹立した。
竹島問題
51年9月、サンフランシスコ平和条約で日本が独立を回復した。これに対し、李承晩大統領は、翌52年1月に李承晩ラインを発表。竹島(独島)の韓国領有を宣言した。
このあと、多くの日本漁船が韓国によって拿捕された。
朝鮮戦争
朝鮮戦争とは
50年代に東アジアで起きた戦争。東西冷戦を象徴する戦争の一つである。
朝鮮戦争の影響
核戦争を意識した初めての戦争
朝鮮戦争は、核保有国が背後に入った初めての戦争である。ソ連の国際連合決議の棄権は核戦争が視野に入っていたから行われた措置である。また、マッカーサーの原爆使用問題からわかるように朝鮮戦争は核戦争の一歩手前まで進んでいた。
アメリカの政策転換
アイゼンハワー大統領は、トルーマン大統領の封じ込め政策から巻き返し政策へ転換した。政策も経済援助から軍事支援に代わった。50年代、日米安全保障条約などのアメリカとアジア諸国の軍事同盟が次々成立した。
中華人民共和国の発言力の上昇
朝鮮戦争によって、中華人民共和国がアメリカと互角に戦える軍事力を持っていることを内外に示した。そのため、54年のジュネーブ会議には中華人民共和国の周恩来首相が参加した。
55年にはアジア=アフリカ会議を開催。第三世界の連帯を呼んだ。これがスエズ動乱や60年のアフリカの年に影響を与えた。
休戦
51年6月から始まった停戦協定は難航した。しかし、転機は訪れた。朝鮮戦争とインドシナ戦争の泥沼化で52年アメリカ大統領選挙では、民主党が敗北。共和党のアイゼンハワー大統領が誕生した。翌53年3月スターリン書記長が亡くなる。これにより米ソ冷戦の緊張は緩和した。「雪解け」の時代である。
53年7月、54年のジュネーブ会議で和平交渉を行うという条件で休戦に合意した。しかし、ジュネーブ会議は決裂。韓国と北朝鮮は現在も戦争状態にある。
中国共産党、義勇軍を派遣
中華人民共和国は、国境付近まで国連軍が迫ると北朝鮮に軍隊を送った。しかし、表立って北朝鮮を支援すれば国際連合を敵に回すことになる。そのため義勇軍という形をとった。
中国は内戦が終結したばかりで十分な軍隊を送れないと国連軍総司令官マッカーサーは見ていた。しかし、マッカーサーの予測は誤っていた。朝鮮戦争は長期化。クリスマスになっても朝鮮戦争は終結しなかった。翌51年1月には再びソウルが陥落した。
51年4月、原爆使用問題でトルーマン大統領はマッカーサーを解任。51年6月から米ソで停戦交渉が始まった。しかし、この交渉は難航した。
国連軍の派遣
50年7月7日、国際連合は安保理決議によって国連軍の派遣を決定した。安保理は、5大国の一致が原則である。当時、中国の代表権は台湾の蒋介石国民党政権が保有していた。そのため、米英仏中の賛成は簡単に集められた。一方、ソ連のスターリン書記長はこの決議を棄権した。表向きは、中国の代表権問題であった。しかし、実際は米ソの核戦争に発展することを危惧していた。
50年9月、国際連合は、マッカーサーを総司令官とした国連軍を組織。ソウル近郊の港町仁川に上陸。10月平壌が陥落。国連軍は瞬く間に中国国境付近まで進軍した。国連軍の人々はクリスマスには国へ帰って家族と過ごせると考えていた。
北朝鮮の侵攻
50年6月25日、北朝鮮は国境(38度線)を越え、韓国へ侵入した。その3日後にはソウルを陥落させた。ちなみにソウルは38度線のすぐ南にある。金日成(北朝鮮)は、ソウルを陥落させれば韓国でも共産党支持者によるクーデターが起こるものと思われていた。しかし、実際はこのようなクーデターは発生しなかった。
北朝鮮軍は、韓国国民の支持を得られないまま韓国軍を釜山まで追い詰めた。