紀元前2世紀の朝鮮半島 武帝 vs 衛氏朝鮮

武帝の朝鮮遠征

武帝の朝鮮遠征

 朝鮮半島は、紀元前2世紀末に漢王朝の武帝が朝鮮半島を征服。以後、3世紀の魏晋南北朝の戦乱期まで中国王朝の支配を受けるようになった。

 今回は、前半で武帝の朝鮮遠征を描き、後半では武帝が侵攻する前の朝鮮の様子を描いていきます。

武帝とは、

 紀元前2世紀後半は、武帝の時代である。武帝は41年に若くして皇帝になった。直前の呉楚七国の乱で有力な地方豪族がいなくなっていた。

 武帝は、中央集権化を進め、郡国制から郡県制へ移行した。大量の役人を必要としたしたため郷挙里選を導入。秦の始皇帝が弾圧した儒教を重んじ、国教化した。

 武帝は、内政でも成功したが、戦争でも結果を残した。39年には、中央アジアに張騫を派遣。中央アジアに河西四郡をおいた。また、北方への匈奴の遠征を繰り返し、北へ領土を拡大した。南では12年東南アジアの北ベトナムを占領した。

漢王朝と衛氏朝鮮

 漢王朝成立当時の2世紀初頭、漢王朝と衛氏朝鮮は良好な関係にあった。衛氏一族は漢王朝への朝貢を行っていた。

 しかし、武帝の時代に入ると朝貢も行われなくなっていた。

武帝はなぜ、朝鮮へ侵攻したのか?

 では、なぜ武帝は朝鮮へ侵攻したのだろうか。武帝は、匈奴との戦いが続いていた。一方で、衛氏一族にとっての匈奴は、かつての主君である燕王が亡命した国。有効な関係であった。武帝は、衛氏一族と匈奴の同盟を恐れていた。

 しかし、それであれば中央アジアの大月氏国のように同盟関係にもっていけば済む話である。しかし、そうはいかなかった。大月氏との交渉で武帝は同盟の難しさを痛感していた。さらに、衛氏朝鮮は朝貢をやめたばかり、関係は最悪であった。また、衛氏一族の影響で、朝鮮半島はかなり発展した。さらに鉄の産地でもあった。そのため、武帝は衛氏朝鮮に対して同盟ではなく、戦闘で関係を築こうとした。

難航する朝鮮侵攻

08年、武帝は衛氏朝鮮へ侵攻した。武帝は陸と海から侵攻した。衛氏朝鮮は瞬く間に包囲された。しかし、籠城戦は長引いた。それは、衛氏朝鮮が鉄製武具を使用していたからである。

 しかし、翌07年、衛氏朝鮮は武帝によって滅ぼされた。

漢四郡の設置

 武帝は衛氏朝鮮を滅ぼすと、朝鮮半島に漢四郡を置いた。衛氏朝鮮の拠点のあった平壌には楽浪郡(らくようぐん)が置かれた。

衛氏朝鮮

 紀元前3世紀末、秦の始皇帝が亡くなると秦王朝は衰退した。中国大陸は再び戦乱の世に戻った。戦乱から逃れるため、中国大陸から朝鮮へ避難するものもあらわれた。衛氏一族もその中にあった、

 紀元前3世紀末、漢王朝が成立。地方が郡国制で統治された。この時、衛氏一族は、北京周辺の燕(えん)の国にいた。北京周辺など地方は周王朝時代の封建制が認められ、燕王が統治していた。

 97年、燕王は漢王朝に対して反乱を起こすが失敗。燕王は北方の匈奴の国へ亡命した。燕の国は封建制から郡県制に代わり漢王朝から新しい王が派遣された。衛氏一族も燕の国を追われ朝鮮半島に入った。95年、衛氏一族は、平壌のある朝鮮半島西北部に衛氏朝鮮を建国した。

 衛氏一族は、これまでの話のとおり中国からの移民である。しかし、朝鮮民族と融合し朝鮮風の王朝となった。また、朝鮮半島南部でとれた鉄を使って鉄製武具の生産に成功したといわれている。

 建国当時の衛氏朝鮮と漢王朝の関係は良好で、衛氏朝鮮は漢王朝に朝貢を行っていた。建国当時の漢王朝は匈奴にたいしても友好的な政策をとっていた。