マケドニア戦争
マケドニア戦争とは、共和制ローマがマケドニアを属州にする戦争である。紀元前215年から紀元前167年にかけて3回に分けて行われた。
当時の共和政ローマは、紀元前3世紀初頭にイタリア半島を統一したばかりの小国であった。3世紀半ばから、北アフリカの大国カルタゴと西地中海の覇権争いを行った。詳細は「紀元前3世紀のフランス」をご覧ください。
戦争のきっかけは、第2回ポエニ戦争である。ポエニ戦争とは共和政ローマとカルタゴの間に行われた戦争である。紀元前264年から紀元前146年にかけて3回に分けて行われ、カルタゴが気共和政ローマの属州となった。カルタゴとは、北アフリカに拠点を置いたフェニキア人の国家である。フェニキア人は元々中東東部のシリア出身で地中海交易で繁栄した。
カルタゴは、第1回ポエニ戦争に敗北。穀倉地帯のシチリア島を奪われた。ここに登場したのがハンニバルである。ハンニバルは共和政ローマのリベンジマッチに燃えていた。カルタゴは、マケドニアと同盟を締結。さらに、シチリア島のシラクサを親ローマから親カルタゴに転換。共和政ローマ包囲網が完成した。
余談だが、浮力で有名なアルキメデスの原理のアルキメデスは、紀元前3世紀のシラクサ出身の科学者である。第2回ポエニ戦争では、投石機で共和政ローマ軍と苦しめたが、共和政ローマの兵士に殺された。このとき、味方にしようとしたローマの将軍が嘆き悲しんだといわれている。
ポエニ戦争は、カルタゴの奇襲(アルプス越え)により、ローマに征服されたいイタリアの諸都市は反ローマに動き出した。そのよう中、マケドニアは共和政ローマへ侵攻した。これが第1回マケドニア戦争である。
しかし、このときにアテネなどギリシャ南部の諸都市(ポリス)が反乱。マケドニアは撤兵を余儀なくされた。ギリシャなど南部の諸都市はその後、共和政ローマに接近。第二次マケドニア戦争につながる。
ヘレニズム3国
ヘレニズム3国とは
ヘレニズム3国とは、紀元前4世紀アレキサンダー大王の死後に分裂してできた。3つの国のことである。
アンティゴノス朝マケドニア
アンディゴノス朝マケドニアは、アンディゴノス1世が建国した国である。バルカン半島と小アジアを統治した。紀元前2世紀のマケドニア戦争に敗北。ローマの属州となった。
プトレマイオス朝エジプト
プトレマイオス朝エジプトとは、プトレマイオス1世がエジプトに建国した国である。これにより、少数のギリシャ人がエジプト人を支配する構造となった。プトレマイオス朝は、古来のエジプト王朝に倣いファラオと名乗った。
紀元前1世紀、クレオパトラが弟ともに政治を担うようにようになる。共和政ローマとも友好関係を築いていた。しかし、共和政ローマの内紛に巻き込まれ、オクタウィアヌスにに敗北。ローマの属州になる。
セレウコス朝シリア
セレウコス朝はシリアは、中東からペルシア、インダス川周辺まで統治した。しかし、紀元3世紀に入ると、中央アジアでギリシャ系のバクトリアが独立。その後、ペルシャでペルシャ系遊牧民族パルティアが独立。紀元前2世紀には、パレスチナのユダヤ人の反乱が頻発。紀元前1世紀に、共和制ローマのポンペイウスに敗北。ローマの属州になる。